2014年10月14日火曜日

上新田の話

皆さんが住む上新田が新田村として誕生したのは、江戸時代、3代将軍家光の頃だそうです。
嘉永3年、1626年、今から386年前です。山田下村の吉田五郎右衛門、田中安右衛門、
吉田権兵衛という3人が世話役となって上新田80石、下新田40石、合わせて120石の
村高で開発を請け負い、山田村から分かれた上新田、下新田の新しい村が生まれました。
そして、開墾がすすんで耕作地が増えると、分家にあたる人達が独立して、寛永12年
1635年には27戸だった家が、230年後、幕末の慶応元年 1865年には130戸
にもなっています。また、石高も当初の80石が明治5年には605石にも増えました。
もともと新田村で人々が生活を始めたのは、千里丘陵の谷間をせき止めて池を造り、そこか
らの用水が利用できるようになってからです。千里丘陵は川から遠く、ため池が水源でした。
今も残る「樫の木池」や千里体育館のところの「安場池」などが江戸時代初期につくられま
した。上新田集落の人々は苦労して池をみんなが使えるようにしました。集落は協同作業などを通して終結し、社会組織の連合体を
築き、行政機関を有する新田村として大きく発展していきました。
実は上新田は昭和28年1953年に豊中市に編入されるまで、豊能地区ではなく三島地区
に属していました。
新田小学校は明治6年、1873年に今の吹田市立千里第一小学校の分校として開校しまし
た。昭和28年豊中市に編入され、豊中市立新田小学校になったのです。創立139年の
小学校です。
上新田の中央を通る道は、古くは大阪方面からの箕面にある勝尾寺までの参道でした。
明治のころには新千里南町3丁目を天竺川ぞいに北東にすすみ、旧新田小学校前を左折して
上新田村に入り、参拝客はちょうどその辺で休憩ということで、上新田には茶屋や参拝客専
用の宿があったそうです。
当時をしのばせる町石や道標が今でも上新田1丁目や2丁目のあたりに残っています。
見たことありませんか?1丁目7番の馬頭観音像や2丁目4番の三叉路の「右いばらき、左
かちおし」ときざまれた道標はすぐにみつけることができます。
この道を右に行くと、いばらき、宇野辺から高槻街道へとつづき、京都へいくよ、左に行く
と勝尾寺だよ、という道しるべです。
また旧新田小学校と新田幼稚園のあいだの道をまっすぐいく三国街道は上新田でとれた農
作物やたけのこをつんだ荷車や牛舎が大阪へとむかった道です。
その後、長くつづいた農村社会は千里ニュータウンの開発で激変します。
上新田は土地の買収などがうまくいかなかったため、千里ニュータウンからはずれることに
なりますが、昭和51年のシーアイマンション、昭和54年の朝日プラザやパークヒルズ
など、豊中のマンション建設の先駆けの地となりました。
この地区の人口も増え、昭和59年、豊中で一番新しい小学校、新田南小学校もできました。
竹やぶや田んぼを切り開き、マンション建設の波はまだ続いています。
天神社のとんどで使う「わら」を供給できる家はたった1軒だけになってしまいました。
また天神社の裏の竹やぶは見事にとりくずされ、宅地造成が今まさに、おこなわれています。
歴史ある天神社を守るための住民運動もおこっていますが、宅地造成をとめることはできま
せんでした。
みなさんにとってのふるさと、上新田はこんな歴史のある地域です。
みなさんが過ごす今の上新田の風景が、そのまま皆さんの思い出のふるさとになります。
自分の住む街に愛着をもって過ごし、この街でよい思い出をたくさんつくりたいものです。
つくり、その水を「垣内(かいと)」という組織で

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