第2弾 「上新田探索」シニア自然大学校豊中支部案内(企画案)
「信仰道を巡る」 としまして 「勝尾寺街道と道標を訪ねて」を企画しました。
期 日 12月10日(火曜日) 10時
案 内 上村 和功 携帯:090-7349-0809
集合場所 北急桃山台駅 後ろ改札口(売店前)
途中から参加の方へ 旧上新田小学校で 10:30 千里中央から 15分
解散 阪急北千里 16:30 頃
中央体育館・中央公園・安場池(
昼食の予定)樫の木公園 桜並木 峠の茶屋跡途中から参加の方へ 旧上新田小学校で 10:30 千里中央から 15分
解散 阪急北千里 16:30 頃
持ち物 水筒、雨具、弁当
追加持ち物 中央公園のジャンボローラー滑り台を利用の方は段ボールまたはプラスティックのお尻当てをご用意ください。お尻が熱くなりますので、服が変形するかもしれません。
途中でコンビニに寄ります。
コース 桃山台駅 旧上新田小学校 上新田村 見つかった道標を含め5基 天神社
追加持ち物 中央公園のジャンボローラー滑り台を利用の方は段ボールまたはプラスティックのお尻当てをご用意ください。お尻が熱くなりますので、服が変形するかもしれません。
途中でコンビニに寄ります。
コース 桃山台駅 旧上新田小学校 上新田村 見つかった道標を含め5基 天神社
今宮墓地 西国街道 新家・勝尾寺鳥居 一里塚跡
小野原公園(道標) 泣き地蔵 笹川良一墓 北千里公園 北千里
勝尾寺への参拝道はいくつもありますが、今回は大阪からの最短ルートを探りながら、勝尾寺鳥居のある西国街道・新家までを探索し、帰りは、上新田の親村の山田への小野原街道にある道標を通り、上新田の脇道を通り北千里へ 約8キロのコースです。このコースでは道端に立つ見つけた道標を含め8個もの道標銀座にお目にかかります。
上新田は竹林で朝日新聞「日本百選」、「豊中百選」でしたが、今大開発が行われ、昔の面影が失われつつあります。
より大きな 桃山台 上新田 を表示
やく2.3キロ
地図の下にリンクが張ってありますので 大きくしてください。 左側に名称、中央に地図が表示されます。
図中のポイントをクリックすると名称がでます。
北急桃山台駅 は全体地図で見てください。 上の地図の一番左下から説明 上新田の様子
昭和47年の写真 「文化財ニュース豊中より」
上新田は 江戸初期に淀藩領山田村の豪農3名により下新田と開発された。それ以来増産増産で80石であった出来高が明治初年には605石であり、大きく成長したむらである。 江戸中期には「隠し田事件」が起こり、死亡者がでている。 同じころ、民が力をもち、心のよりどころとして、観音信仰・勝尾寺(西国33か所)への参拝者でにぎわう。
明治の市町村合併で下新田と合併し、三嶋郡新田村 昭和28年分離して豊中市へ下新田は春日町として吹田市へ
昭和47年の写真 「文化財ニュース豊中より」
上新田は 江戸初期に淀藩領山田村の豪農3名により下新田と開発された。それ以来増産増産で80石であった出来高が明治初年には605石であり、大きく成長したむらである。 江戸中期には「隠し田事件」が起こり、死亡者がでている。 同じころ、民が力をもち、心のよりどころとして、観音信仰・勝尾寺(西国33か所)への参拝者でにぎわう。
明治の市町村合併で下新田と合併し、三嶋郡新田村 昭和28年分離して豊中市へ下新田は春日町として吹田市へ
旧新田小学校 大阪府
この建物は、明治33年1900年に建てられたもの、木造建築で最古大阪府の文化財になっている。
最初に立ったもの、後で建て増ししてある。100周年の航空写真によると、もう一つ校舎があって、その東側に運動場があった。 75歳以上の下新田の人は、この小学校に通っていた。 使用していたのは 昭和48年まで
この建物は、明治33年1900年に建てられたもの、木造建築で最古大阪府の文化財になっている。
最初に立ったもの、後で建て増ししてある。100周年の航空写真によると、もう一つ校舎があって、その東側に運動場があった。 75歳以上の下新田の人は、この小学校に通っていた。 使用していたのは 昭和48年まで
見つかった道標 上新田の墓地 万人講は4基見つかっている。
そのため、後の文字も読める。 また資料として 右 くまのだ おかまち としてわかった。
万人講は多く存在していたようで、八幡市円福寺(だるま堂):鈴鹿峠の常夜灯は万人講
この近くの万人講の道標は ここと、吹田江坂のスサノウノ尊:油かけ地蔵にある。
そのため、後の文字も読める。 また資料として 右 くまのだ おかまち としてわかった。
万人講は多く存在していたようで、八幡市円福寺(だるま堂):鈴鹿峠の常夜灯は万人講
この近くの万人講の道標は ここと、吹田江坂のスサノウノ尊:油かけ地蔵にある。
上新田御旅所
天神社のおみこしは 午後ここから出発していた。
祭りとしては、山田村の流れがある。 「おたび池」だった
天神社のおみこしは 午後ここから出発していた。
祭りとしては、山田村の流れがある。 「おたび池」だった
共同井戸跡
大阪三里の道標 在所とは村があるということ。
木製の案内板は 「五一会」の人たちが建てたもの五三年 また、「写真で見る 上新田」を出版
木製の案内板は 「五一会」の人たちが建てたもの五三年 また、「写真で見る 上新田」を出版
「右 か」の道標
現在の千里中央 南西にでる。 農作業を行うための道、春には箕面へ花見にいったとか、竹林の中で宴会が開かれた 裏面は 「上」 だけ、道路工事の毎に埋もれたらしい。
「さいてじ」の道標 豊中で一番古い道標
「さいてじ」の道標 豊中で一番古い道標
天明元年 さいてじとは吹田の佐井寺:観音信仰 目の病気が治る
裏面に 右 大坂 とある
色々な門構え
裏面に 右 大坂 とある
色々な門構え
上新田で唯一のお寺「浄土真宗 新覚寺」
もともとは 旧石蓮寺の興法寺の末寺だったが、浄土真宗本願寺派
明治6年 片山の連合小学校の分校として明治14頃までここで学んだ
もともとは 旧石蓮寺の興法寺の末寺だったが、浄土真宗本願寺派
明治6年 片山の連合小学校の分校として明治14頃までここで学んだ
天神社」、大きな地蔵
「千里のパワースポット 上新田天神社 千里の氏神様・千里の天神さん
「千里のパワースポット 上新田天神社 千里の氏神様・千里の天神さん
「本殿」 市指定有形文化財 1686年
「とんど祭」 市指定無形民俗文化財 1/14日 火を持ち帰り、小豆粥を炊いて食べると、一年間無病息災で過ごせるという習慣があります。 見学記録 2013/01/14
上新田は竹林で朝日新聞「日本百選」、豊中市のhpでも「とよなか百選」でしたが、
今大開発が行われ、昔の面影が失われつつあります。
「山口邸」旧山田邸 上新田の薬酒 かの有名な「日本外史」の著者:頼山陽もおと連れ、伊丹と行き来をしていたらしい。 この家には、頼山陽が命名した部屋「歳寒堂」の額があったが、現在は 岸部中西家にある。 、
徳林院の案内:徳本上人が訪れた場所
由来 常光庵 開祖大阪市の呉服商の娘・小畠清順 本院は京都・知恩院内の「徳林寺」を移築、
入口の碑は 徳本上人・徳本行者 享和元年(1801)から箕面勝尾寺松林庵13年間 箕面を去る1814年(文化11年) 文化八年勝尾寺法然八〇〇回忌を営まれ、「詣で来る者朝市の如し」と記され、多くの人が訪れる。粟生間谷西の碑:有名なのは独特の丸文字で書かれた徳本文字 「南無阿弥陀仏」の六字名号の掛け軸が伝えられている。その他全国に1000基以上の碑がある。
由来 常光庵 開祖大阪市の呉服商の娘・小畠清順 本院は京都・知恩院内の「徳林寺」を移築、
入口の碑は 徳本上人・徳本行者 享和元年(1801)から箕面勝尾寺松林庵13年間 箕面を去る1814年(文化11年) 文化八年勝尾寺法然八〇〇回忌を営まれ、「詣で来る者朝市の如し」と記され、多くの人が訪れる。粟生間谷西の碑:有名なのは独特の丸文字で書かれた徳本文字 「南無阿弥陀仏」の六字名号の掛け軸が伝えられている。その他全国に1000基以上の碑がある。
上新田から勝尾寺鳥居
4.9キロ 1時間3分
4.9キロ 1時間3分
「上新田の古くから残る家々」
旧新田小学校 一般公開開催 2013年 終了しました。
ハイキング 六甲「シュラインロード」 活動報告写真 11/19
25年前の上新田のスケッチ
「見本のまち」 上新田の見どころ 郷土愛& 食事処
小野原探索 山田・上新田、失った道標、相撲取りの墓
旧新田小学校 一般公開開催 2013年 終了しました。
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