2009年3月30日月曜日

高野街道 パート2

13個の道標(高野街道13里)
 前回途中で終わりました。近くまで行ったのに会うことができませんでした。
 前回九里の道標、今回は八里の道標を目指して
 
 案内には遠くない、国道まで行くまであるはずですが 
国道まで行っても見つかりません。 一駅歩きました。


 横の居酒屋が気になり、見過ごして 橋を渡りました。
 電柱の陰に隠れています。

 

 その1  興味をそそる  高野街道 河内長野

2009年3月27日金曜日

 松並木の街道  天竺川堤防


  熊野田街道??   天竺川堤防

  天気のいい日にちょっと 三国から天竺川を上って
 服部緑地まで散策もいいですね! 
  この松並木、街道の風情を残す、 古い地図には堤防までの道は書いてあるが、近くでは高川の堤防を使う「三国街道」は道を赤で記してあるが、天竺川の堤防には堤防まで書いてあるが、道としては書いてない。
 熊野田の子供たちは、服部神社の祭りにはこの道を使っていたといわれている。が、その道もうっそとした草が生い茂っていたという。
 
西願寺橋 上流
 

2009年3月26日木曜日

大発見 豊中市上新田 また 見つけました。 

熊野田・大阪へ分岐道標
   「見本のまち」・・・「道標の見本」
   長年 この道標を探していました。 この村にはすでに4基の道標があるので
   もしかしたら 三国街道との分岐にないかないか とさがしていました。
   この道標がそれにあたります。 旧新田小学校角にあったもの。
   それで、この村上新田村の出口にはすべて道標がそろうことになった。

勝尾寺参り帰りの道しるべで落合橋の手前、旧新田小学校横にあったのでしょう。
この他上新田には4つの道標が残っています。新田東出口の勝尾寺の道標
南出口 佐井寺の道標。最後にもう一つの出口(西出口)、大阪道、熊野田の分岐のここに欲しかった道標です。 新田の道標が揃いました。 良く残っていました。近所の人に聞きましたが、此処に道標があるとは気づいていないようです。
途中で折れていますが、3文字の判断が出来ます。来られる方が頭をさすっているのでしょう、良く光っていました。 
見つけた当初は下方が雨のしぶきで土が跳ねて文字が見えませんで、
西面の南しか見えませんでした。 表面の土を落とすと 次のように判読できます。  
南面 右大阪
西面 南無阿(弥陀仏)
北面 為万人
東面 左くま
熊野田の名が現れました。  後は熊野田に道標があればいいのだが!

上新田の墓地







まだ知られない道標があるのでしょうか?
これまで

万人講の道標

「見本のまち」・・・「道標の見本」

見つかった道標       

豊中の道標 

  

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最初の道標探索

『思い出 Ⅰ』 豊中三中 『琵琶湖と私たち』
『思い出 Ⅱ』 豊中九中 『初めての教え子』 
『思い出 Ⅲ』 豊中九中 『街道を探る』 その2その3(上新田村の道標を記載) 1999

旧新田小学校校舎見学会 おいしいラーメン 2012年11月11日日曜日
新田のとんど                      2013年1月19日土曜日
竹藪がなくなる。 上新田  変貌する町並み   2012年8月13日月曜日
見つかった 「上新田西口道標」     2009年3月26日木曜日

天竺川 橋 八坂橋より上新田       2012年5月4日金曜日
ニュータウンの地蔵尊            2012年5月5日土曜日
祭り とんど祭 上新田 (無形民俗文化財)  2010年1月14日木曜日

続きルート  追加
追加  2012/03/25  
あなたはどのルートを撮りますか
道標から





上新田から勝尾寺まで
「見本のまち」 上新田









2009年3月25日水曜日

「福西 茂  画 集」 製本 東雅書房

「福西 茂  画 集」 完成
自分なりによく出来ました。
製本がバッチリでした。


豊中の歴史資料「豊中の史跡たずね描き」
元になった「絵」を本にしました。

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左右の原本は、やく300枚 それを
福西氏がいろんなところで 展示・公開されていました。
その後 絵、資料を豊中市教育委員会に寄贈され、
まとめられたのが「豊中の史跡だずね描き」です。
今回、原画をデジタル化し本にしました。  
写真印刷の方が良いのですが、手軽にできるというので、インクジェット印刷
インクがどんどん減っていきます。
製本 東雅書房 が無料でやっていただきましたが
紙代、インク代、総計 3万円 一冊当たり約1万円


三冊作成 寄付先 福西茂氏、豊中市立岡町図書館、
            豊中市教育委員会にそれぞれ寄贈しました。
       私の手元にはありません。

非売品です。 問い合わせは 豊中市教育委員会文化財保護係 まで

        「福西 茂 画集」  
         「豊中の史跡たずね描き」
         豊中市立岡町図書館

つながり   塩田豪一氏 と出身地が同郷 

2009年3月24日火曜日

問題の道標 解決か!!  長嶋神社横の堤防

 能勢街道・熊野田道との分岐
  天竺川東の道標  高川からか?
  市の資料には 「高川からの移動」と資料に書いてあったから
  と言う説明ですが、説明にならない。
   説明、納得できないものを載せてはいけないと思います。
    分かりません。
  違う次元ですが、確認できるものは確認する必要がありますね。
   ガイドブックは他の資料をそのまま転記しているのがあります。
    水が枯れていると言われる「北谷の井戸」は 
   去年の9月、現在水位は地上より3メートルと低くなっているが水を蓄えています。
    資料にしたのは「豊中の史跡たずね描き」には「水が枯れている」とされています。
   確認が欲しいですね。 

 この道標は
   私は対岸からの移築されたものと考えています。
    疑問の道標」 で考察中
 資料 江戸時代の「豊島郡誌」絵図  作 今西玄章では
     天竺川を使った、勝尾寺街道が表記されている。 

2009年3月22日日曜日

興味をそそる  高野街道 河内長野

河内長野駅で 昼食の合間 駅前を探索
大きな木を見つけました。




それから 街道を


そこには  ロータリークラブ寄贈の立派な案内板が

高野街道の合流点
帰宅後 調べた結果
東高野街道 京都 → 八幡八幡 → 生駒山麓を南下し(国道170号線)ここで合流
西高野街道 堺 大小路  →  河内長野 道標 13里現存する。  興味を惹かれます。
九里 の道標 を目指します。

安政四年でした。
高野山女人九里  
右 中本山極楽寺
左 さらい 四里 大坂 七里

写真を撮っていると 通りがかりのお年寄りが 「よう残っている、ここらには 講がたくさんあり、大峰信仰の証しがたくさんある」

本町まで戻り、 高野街道 八里 の 道標を目指します。三日市駅へ
先ほどの 大きな木の横を通り 天野酒造があるのでそちらに折れる。
店で案内を請いました。 高野街道 すぐ 左に折れるそうです。 先ほどは 川に沿って歩きまして、どうもおかしいと思い、この酒店まで戻りました。 そこで
酒造で1本買いました。 この酒蔵 国登録文化財でした。

橋を渡ったところに  大和川合流地点からの表示がありました。

そこで 春を まだ 硬い


途中 千早城の金剛山や岩湧山が見えるところがあり、のどかな街道を三日市駅を目指します。



右 さろい 大坂 へ
左 いづみ道

立派な案内板 上田町会

上田町の近辺の案内でした。 立派です。
旧高野街道三日市宿内上田駅周辺の案内板
上田胸切地蔵の由来、高野街道の辻地蔵、上田のふたつの森
三日市宿内上田駅「高札跡」

三日市駅手前  この建物は 案内はありませんでした。 交番の移転の案内がありましたので
旧交番 でしょう。 その横には 三日市村役場跡がありました。

風情のある 町並みです。



駅前の道標

八里の道標は見つかりませんでした。
帰って調べると もう少し行ったところに存在します。
吉野酒店を回る道が正解でしょうが もう一つの道にも 街道の沿道
の風情を残している。


高野街道 パート2   忘れ物を撮りに








豊中の文化財 道標編 昭和50年

  豊中の文化財 道標編 
 昭和50年  38p

豊中市教育委員会   豊中市文化財保護委員会

天竺川沿いに街道が書かれている。
 「疑問の道標」も解決するのだが!

2009年3月21日土曜日

3番目に古い道標

道標一覧は2008年に作りましたが まだ 確認していない道標です。
 
今回 行って来ました。
 大阪府 3番目に古い道標
 万治四年 江戸時代 1661年   河内長野市小深
 堂々とした風格です。
 左 金剛山 

 先に千早城跡を見学し、バスでここまで いつもは歩きですが 途中下車可能な切符を買いましたので。
 切符 3dayチケット 5000円を使用しました。
 バスの他の人は ハイキングサービック金剛山 を使っていました。
 
  さて、今日は どこに出かけましょうか! 
  

2009年3月19日木曜日

 あの 70年代の万博を

 万博に関心のある方、ない方も

 万博に期待を込めて 

    アンケートにご協力下さい。  3月23日まで

  アンケートに答えて 商品をゲットしよう。

2009年3月17日火曜日

訪問者数 2009年1月

訪問者数
1月集計   人数

 1,野球   173
 2,梅     45
 3,イルミ   26
 4,街道   29
 5,ルーツ   ५

 訪問者数が少ない 合計で

   334名

2009年3月12日木曜日

  かお

豊中のかお




 もう一つのかお


柳谷観音


 柳谷観音
  田んぼの農作業小屋の横(三枚田)
    左には道はありませんが、田んぼの向こうに「地蔵」があります。
   この道しるべの右側を進むと 小畑川に出会う。   



 その前に
 常念寺前   あたごみち


この川(小畑川)を渡る   

  西国街道の案内

  この日のハイキング  京阪電車中書島駅から

 昔から、軍事上の要として幾多の争いがあった、勝龍寺城跡で昼食をとり その後 京阪石清水まで

 私にとって大事なお寺 ぼけ防止 
   勝竜寺 

  淀川に 3つの川が合流するちょっと上流を渡りました。
 川は 北側から 桂、宇治、木津の3つです。  
 石清水寺の展望から 京都方面
 3つの川が見渡せます。


 石清水 本殿

  境内の道標

  今回の写真は携帯で撮影

山根徳太郎

難波京 発掘
 現在、難波京は公園となっています。第1回目の発掘調査は昭和29年 それまでのいきさつの中で一人の人物が
山根徳太郎氏 
 この発掘は、 明治43年 軒丸瓦の発見で、この瓦を 建築技師 置塩 章 さんが長年にわた地大切に保存されたのでした。 そして、山根さんと置塩さんとの出会ったのは大正八年です。 山根さんはこれぞ「難波京」だと、確信されたそうです。その後、公園を頻繁に散策を行っていましたが、手がかりが見つかりませんでした。 そのころ、この地域を開発が行われることになり、工事現場の人に瓦の拓本を見せ、見つけたら知らせてくれと頼まれそうです。
 その時見つかったのは一辺五〇センチもある 「鴟尾」の破片がでした。「難波京」への確信につながりました。
発掘はその後行われ、また、自費で発掘などを行い、最初の発掘から7年目 昭和36年「大極殿」の一部が発見された。そんな折、昭和37年、国の庁舎建設予定が計画され 反対運動が起こります、難波京を公園に、記録のためと2001年には大阪歴史博物館が建てられた。  長い年月を経て、山根先生の執念が実を結び大発見になりました。  
      今は、難波京公園を博物館にある山根徳太郎氏の銅像が見守っています。