2016年2月20日土曜日

並河誠所 せいしょ

並河誠所  「五畿内誌」
寛文8年(1668年) 山城国紀伊郡横大路村 生まれ 伏見区
享保15年(1730年) 摂津国 調査
並河誠所にとって「忘れられている式内社の存在を改めて世に示す」ということが目的
標石は山状角柱と二段の台石から成り、角柱正面に式内社号、左側面に村名が陰刻され、中台石の側面中央には、短冊形の彫込枠の中に「菅廣房建」と陰刻がある。材質は花崗岩で、ほぼ一定の規格である。角柱は高さ96cm(約3尺)、一辺24cm(約8寸)、中台石は高さ24cm(約8寸)、一辺42cm(約1尺4 寸)、下台石は高さ43cm(約1尺5寸)、一辺61cmである(約2尺)。「菅廣房」とは、この顕彰に賛同し、資金を拠出した大坂の山口屋伊兵衛であるが、彼については不明な点が多い。

 並河誠所が『五畿内志』編集を終えた元文元年(1736)6月、摂津国内の『延喜式』所載の古社中20社が当時廃社となり、あるいはその由緒が誤り伝えられていたのに対して、社号石碑を建ててその湮滅をふせぎ、かつ誤りを正すため、幕府に許可と援助を願い出てた。
誠所の弟・儒学者並河天民の弟子で、当時幕府の採薬御用に活躍していた本草学者野呂元丈の斡旋もあり、8月に寺社奉行大岡越前守より許可が与えられた。
8月に寺社奉行大岡越前守より許可を与えられた。

誠所は摂津国東生郡赤川村庄屋久保武右衛門と弟・天民の遺児平太郎に20社を鎮座地において調査させる一方、同年9月、各社鎮座の村々の庄屋を大阪町奉行所に呼び寄せ、奉行松平日向守を通じて建碑の趣旨を申渡し、社号を刻した碑石と台石を大阪で調製させて引渡し、同年末より翌元文2年に指定した位置に据え置かせた。
建碑に要した費用は公儀より受けた廩米のほか、大坂の山口屋伊兵衛がこの年正月に死去したとき遺した20両を用いた。
そのため、台石に伊兵衛の本姓である「菅広房建」の四文字を刻ませている。


  • 元文3年(1738年)、71歳で没した。
金堀塚(現静岡県立三島北高等学校内)に墓が作られたが、大正8年(1919年)に本覚寺へ移された。

北畠顕家卿墓阿倍野伝北畠顕家の墓大阪市阿倍野区王子町3丁目8街区
    卿 政治をつかさどる大臣  三位以上


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