2010年4月7日水曜日

下新田の道標の行方は ????

道標「下の立石」 は、吹田市では現存しない道標として挙げられています。
わかっているのは、上新田村に「上の立石」があり、それに対応した道標として「下新田村」(吹田市春日町)にあったとされ、正確な位置、記載事項は吹田市の資料にはこれ以上のことは記載されていない。
昭和39年にはすでに存在しなかった道標です。()

この「下の立石」 チョット気がかりで 再調査しました。
私が見つけた道標ではないでしょうか!
それで 問い合わせ
吹田市立博物館館員は説明されました、 文化財愛護推進委員・郷土史家、その他何人かの人たちに問いました。
が 上記以上の情報はありませんでした。 また「下の立石」について情報をいただくようにお願いしました。

 情報をお持ちの方 御一報ください。

 

勝尾寺街道  上新田から 今宮へ Ⅱ

青山台桜並木  老木になりました、
翌日(4日)日曜日に通りましたら、両端車が駐車していて
宴会がいろいろな所で開催されていました。
突き当たり 右にとる
すぐ、上に上る道を探す。
箕面に入る。
箕面の船場から新しい道が小野原に通じている道に出くわす。
千里中央・船場方面

左は墓地、右はコンビニ「セブンイレブン」との間の道を進む
向こうの墓地に道標が

(観音様像) 右 かつおじ   左 □田
珍しい観音像の道標です。
池の北側に今宮公開館 その横に道標が
北に向かい 西国街道に出くわす。
その地点にあった道標は 万人講②
西国街道との分岐
今宮阿弥陀名号 (現在所市郷土資料館)
(東面) 左 大坂    (北面)大坂道みなミ口
(西面) 南無阿弥陀仏    (南面) 為万人講中法
下部埋没
北面の表示には一般的に 「右 伊丹・尼崎」と彫る所であろうが、
この道標にはそんな例は当てはまらない道標である。 
西国街道を東進し新家で勝尾寺口の鳥居まで1キロ足らず.

新家の鳥居から勝尾寺表参道はこちら

2010年4月5日月曜日

(下の立石)見つかる。 大発見です! 江坂西西道標

 「下の立石」 です。
道標のある 「勝尾寺 3リ」  は江坂ではありません。
勝尾寺から江坂までは 14キロ 約3.5里になります。
そこで、測量しました。 この道標 「下の立石」だと考えられます。

「右 かちをじ  3り」 を測量計算します。

箕面新家の道標に36町の町石あり、
新家から2里を測量しますと。
上新田から熊野田村と下新田村のルートに分かれます。
熊野田ルートでは 阪急バス停「二の切」では短いです。
熊野田の街中にあったとも考えられますが、
道標があったいい場所、重要な場所は、
村出入り口で村の端か、道の交差点が有力です。
下新田村で考えると、高川を上ってきた三国街道沿いにあり、
千里山からの道と合流うする場所
西照寺の西方に道標があったと考えられます。
そのあたりが調度「右 かちをじ  3り」に当てはまります。
それで、江坂西西道標は「下の立石」と推測できます。

吹田市の資料を見ていましたが、下の立石について
銘記されている事柄、写真などは見たことありません。
昭和39年に「上の立石」を扱った「野の仏」大阪読売新聞では、
「下の立石」はこの時、存在しなかったとあります。
それら資料があったら、一発だと思いますが。
しかたありません。

似ている道標があります。  下の写真は「上の立石」です。

2010年4月1日木曜日

勝尾寺街道  上新田から 今宮へ Ⅰ

この道標からです。
上新田東口道標 
(西)右 山田、いばらき、  左 かちをし
この道を左にとります。
昔は左側に天竺川が流れて細い道でした。
今はコンクリート整備されています。
左は 新しい「新田小学校」です。
天竺川の源流です。 もとは 千里中央の池(新池)
(長谷池)、新千里北町(樫の木池)にある池から、水を引いていたそうです。
ゴルフ練習場の裏を通る
その後は中央環状線に阻まれます。
その後、右に取り
上新田橋で右側に豊中市立千里体育館の前をとおり
上にはモノレール、中環の向こう千里体育館
昔の桜並木 青山台  昔の面影はうすれています。

樫ノ木池


地図 上新田から新家(勝尾寺口)

古い能勢街道  伊勢街道  

小曽根北側から、天竺川を渡り堤防を降りると
さわ病院に出くわす。
そこを右に取り、病院前の坂の道をとる。すぐに左手に墓地が




祠の仲には見事な地蔵がありました。

  これが 染香 の墓




塀の手前三叉路にある 古い道標です。
   名号板碑道標
  右 みのふ山、か□□  左り いけ。

旧能勢街道と箕面街道との分岐


通りすがりのおばあちゃんに聞きました。
「道標を調べているのですが、地蔵なんか知りませんか!能勢街道は」
「家の家の前 岡坂と言っていた。 その横に地蔵が待ってある。 主人が原田神社の宮司をしていたので色々聞いている。原田神社は何べんか火災にあっている。」
「この近くの地蔵は」
「ここいらはたくさんある、荒木の乱の時の死者の弔う地蔵が各家には必ず1基はある。下にもたくさん地蔵さんがあるでしょ。」
「地蔵さんは亡くなった人を弔うことですね。」

福杖講の道標については
「もともとあそこにはなかった、 いつの間にか置いてあった、」

「長興寺村はもともと天竺川の際にあって、洪水の被害を避けるため、この高台にみんな移ってきた。」
「このあたり、瓦焼きが多くあった。」