2009年4月28日火曜日

箕面市歴史資料館館長との会談

 1.見つけた「上新田西口」道標 (旧新田小学校の道標)「万人講その③」
   たぶん 同じ人が作ったのではと思われる道標 箕面に2基
     箕面の道標46,47です。 これで北摂で3基目になる。  
     全て、勝尾寺街道沿いです。 箕面では大阪道
      設置者 「万人講」 そのほか泉南に1基有ることです。合計4基
      万人講は同じ講かわかりませんが、八幡八幡に現在あるそうです。
  さて、西口のは3文字ですが その他で見ると「為万人講□ □ □ □ □ 」
  「南無阿弥陀仏 願主岸貞 □ 」と考えられます。
   角柱で大きくは有りませんが、背丈は 70センチ程と推測されます。
     
その在所は
  ① 帰りの大阪道 石で作られた道に町石があり、たいしゃくてんに参る表参道です。
   二町石が手前にあり、過ぎるとすぐに右側に下るみちがあります。これが箕面でいわれている「大坂道」です。写真では見えにくいですが、大坂道の左に「万人講」その①どうひょうがあります。 「箕面のみちしるべ」の46です。
           手前の道標は「勝尾寺二丁石」です。
    「万人講」道標 4基
    
    ② 帰りの大阪道 上池と大阪道の合流点   馬頭観音??
    
    ③ 上新田西口 
           
 2.勝尾寺帰りの「大坂道」途中で
    見つけたのです。07年11月だったと思って写真を探しています。
    あのときは、そこには道標がない
    「大阪の街道・道標」にはない道標でした。 箕面の方が言われるので
    見つけた道標には入れませんでした。
       写真なし   再度 チャレンジ 

 3.馬頭観音像 豊中で2基、失われている「上の立石」も馬頭観音像でした。箕面で2基これもおもしろい。

   勝尾寺との関係が深い豊中の道標、上新田地区の道標
   コースであれば「拓本」が
 
   

郷土愛をはぐくむ

  郷土愛を育む 「箕面資料」
      http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/minoh/minoh-top.htm


  箕面ボランティアガイド・箕面検定
     http://www.eonet.ne.jp/~minoh-kankou/MVG/minoh-guide/guide-top.HTM 

 
  吹田郷土史裏街道   
http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/history/KamiGami/index.html

 「吹田まち案内人」 町のことがわかる
  片山村   江原氏邸Ⅰ   江原氏邸Ⅱ    その3

2009年4月25日土曜日

貴重な資料

  部屋を拝見  すごい量です。
    いつもにこにこされていますが、 特に部屋に中ではこの様子です。

 すべてファイリングされています。 ぎっしりです。
 それだけではありません。
 写真

  ネガでファイルされています。

  次はビデオですが  保存のためDVDに編集中のことです。
   おん年88歳です。  すごいですね、近くにこんな人もいました。

  今日は約2時間 次回お会いすることをお約束し、おいとましました。

  塩田豪一さん、いつまでも元気で 

探しています 道標を 能勢街道 池田市 木部

追加  2014/02/06
木部の道標  同じものを 福西茂さんも描いていました。


福西茂氏 池田の遺稿入手 歴史に関心が高い ビューが増加中。 


********************

塩田豪一さんとの話の中で 「以前あった道標がなくなっている」というので
  皆さん どこに行ったかしりませんか!
  この道標を探しています。
昭和60年12月13日  今の木部インターに2基あったそうです。
 1基は道路に横たわっていたそうです。 おおきさは150センチ

    左 能勢街道

 同じところにもう一基 自然石で

 右 かめおか
 左 多田みょうけん

  一方通行の標識の下の自然石がそれにあたります。
  この道標 池田の資料にはありません。 「」
 平成7年4月18日  ありません。家の様子が違うので もう少しなんかしたところでしょう。
 右手の木が目印ですが
 
 
  私が見つけた道標はこちら
  まだまだあるのではないでしょうか!  あなたが発見者

 

能勢町 塩田豪一氏 訪問

この二〇年間 能勢町で町の歴史の編纂等に携わってこられました。
その一部 街道をまとめられたのが下記
    「能勢の街道と参詣道」

 そのほかに フルカラー2冊
 「千軒道・国崎道」
 「思い出の里 能勢」 


      立派なものです。

 塩田豪一氏   能勢町 森上の自宅にて 4/24
  能勢町への思いを語っていただきました。
 「町のために何かできること、 
        今ある伝統を語り継ぐ、記録に残す。」
 一庫ダム工事には、毎週のように出かけ、写真を撮られたそうです。 湖に沈むことを想定し、ある高さから定点での撮影もやられました。  工事関係者が「また来とるのか!」といわれたそうです。毎週なので、工事事務所の所長さんから特別に「入構許可書」を頂いたそうです。 その許可書も見せて頂きました。

 話の中で 福西 茂さんの話題が上がり 
 福西 茂 さんは 能勢町神山出身で最初能勢町を書かれたそうです。
 絵は素人でお世辞にもうまいとわおもわれなかったようでした。
 その後、 豊中市、箕面市、池田市、大阪市平野区を書かれ
  本には箕面市、豊中市、平野区で出版されたそうです。
能勢町は塩田さんと一緒に回り、描かれたそうです。  完成後は能勢町で展示会を開催され、資料を能勢町に寄贈されたそうです。 
 私は「豊中の・・・・」の原画集を出版しました。


 次回 探しています。

つながり   塩田豪一氏 と出身地が同郷 
        「福西 茂 画集」
         「豊中の史跡たずね描き」
         豊中市立図書館

2009年4月24日金曜日

おもろいソフト

 ちず丸距離計測 で 健康管理
  今回利用したソフトです。
 ハイキングをやられる方には重宝します。
 歩く距離、徒歩時間、そして 消費カロリーを出してくれます。
 今はまだ「フリーソフト」です 一度 使ってみてください。


  今回 山田から茨木市宇野辺をMBSルートと市場池経由とを
比較してみました。

 次は豊津から吹田の渡し経由と片山を通るルートで検索してみます。

2009年4月23日木曜日

京への道 5 豊中の道標から

豊中市の道標 から見る
豊中市以外のの地名
大坂 12
箕面  7
京   5
柳谷  1
山田  1
茨木  2
吹田  1
池田  5
能勢  1
尼崎  1
伊丹  1
下新田 1
 その他信仰上の行き先に
 佐井寺1・勝尾寺11・妙見2・中山3・多田1がある。
地名として大坂が一番多く、次に勝尾寺11、箕面7となる、
そこで地図上で豊中以東の地名を上げると
 遠い地名から 京、柳谷、茨木、吹田、山田があるが数少ない。
現存する道標で「京への道」(豊中の京街道)を辿ってみる。
 前回、京へには他の資料で調べた結果 一般的には高槻街道を利用し
 吹田 → 茨木 → 高槻 → 西国街道となるのが一つのルートとなる。
 そこで、道筋の吹田、茨木を辿ることになる。

豊中市内から京に向かうには 上新田、小曽根を目指して他市、村に向かい、それぞれが山田、吹田に通じることになる。
  上新田東口の道標 右 山田 いばらぎ をめざす。
 
 小曽根の「京」珍しい一文字の道標 吹田を経て京都を目指す

 山田、吹田の次は行き先は同じく茨木市下中条町で宇野辺から来た高槻街道と合流するから京を目指すことになる。
 山田ルートは道標がないが宇野辺に、「左 山田」の道標がある。それで宇野辺を目指す、山田の伊射奈岐神社で左に折れ、宇野辺に向かう。また、山田からはそのまま東進すると市場池で亀岡街道に出会うそこから宇野辺を目指す。このコースは少々遠くなるので伊射奈岐神社から宇野辺のルートが近道になる。3.03キロメートル市場池のルートはそれより1300メートル遠いので山田から宇野辺へ向かったのであろう。
 吹田ルートは亀岡街道・高槻街道で宇野辺にむかう。約4.33キロメートル

2009年4月22日水曜日

 妙見口の道標
  能勢町にメールで問い合わせ16日
 まだ 返事はいただいていません。

 それで能勢の道標に詳しい
 「能勢の街道と参詣道」の作者
   塩田豪一 さんに電話で問い合わせ

  (資料一覧はこちら
 残念ながら 質問の道標は知らないとのこと
  見つけた道標 で取り上げた 前川橋の道標は
  この本で知ることができました。と話しました。
 
  長いこと電話で話しました。
   一度お会いしたと思います。 塩田さんも了解してもらいました。
 
      

2009年4月21日火曜日

京への道 4  宇野辺 茨木 高槻 

宇野辺のこの道標で高槻街道と東に取る。

 この後 資料集「大阪の街道・道標」で「京」への経路をとる。
☆ 表示は「京」と書かれている面をすべて書きました。
☆ 最後の数字は資料「大阪の街道・道標」の道標番号です。
① 右 京 茨木 ぞうじ寺         535
② 右 京 八幡 三島江 唐崎 富田 高槻 536
③ 右 富田街道 鮎川 □垣 三島江    537
  左 高槻街道 高槻 山崎 京都
④ 右 京 山崎 高つき 茶川       538
  左 能勢妙見 かぶさん
⑤ 左 高つき 茶川 京          539
⑥ 右 高槻街道 高槻 山崎 京都     541
  左 高槻街道支線 高槻停車場 茶川
⑦ 右 八はた 淀 前島 舟のり場     543
  すぐ 京 伏見 山ざき 柳谷 よしみね
⑧ 右 京 山崎 淀 柳谷 ふしみ 宇治 八幡 544
⑨ 左 京 ふしみ よど 八幡 山崎 柳谷   545
 以上 宇野辺から「京」9コを数えた。同様に「大坂」も多くあり
 京都と大阪を結ぶ幹線であったようだ。
 そのほかには 「吹田」が3コ、遠いが「尼崎」が3コあり、
 その他には信仰上の 勝尾寺、能勢妙見、柳谷などが表記されている。

 高槻街道は大阪の高麗橋から亀岡街道を北上し宇野辺から東方
に進み茨木、富田、高槻を経て終点高槻市安満で西国街道と合流する。  
 これで、豊中市以東における「京」への道がわかる。
 豊中から京に向かうには「北東方向」へ道を選んだようだ。

逆にたどると 豊中市以東で道標に豊中関係が表記されているのは
 「岡」が2カ所で見つかっている。吹田南町の道標 左 中山 池田 岡 伊丹 529   
 また「上新田」と同記載が三辻の道標で 左 上新田村 をか町 いたみ とある。  
 その他に「上新田」は箕面市小野原にある道標で表示されている。

「京への道」 
 豊中で上がっている地名は「大坂」10コ「吹田」「茨木」「山田」「柳谷」等がある。
 京に近い 茨木 山田を頼らねばならない。
 無謀の仕業か  道標がないと京にはいけません。昔の人はどうしていたのでしょうか!

 なくなったのが本当でしょう。
昔は村はずれに行き先を示す道標があったのでしょう。それがいつしか忘れられ、廃られたのでしょう。
 高槻城下からの出口には道標がある。 同様に上新田村からの出口にも道標がある。
 この2つの例は希有なことのようだ!

2009年4月20日月曜日

京への道 3  吹田の渡し 茨木 亀岡街道

神崎川を吹田の渡しで吹田に入る  京都を目指す
  
渡ってすぐ「南町道標」

右 茨木 惣持寺 京 富田 高槻 勝尾寺 茶川 とある。
そのまま右手に進むと  「六地蔵道標」があり

左 茨木 富田 福井 山田 「京」 とある     反対側には
右 勝尾寺 惣持寺  とある。  そのまま進む 昭和町でJRをくぐる。今は道はない。
天道で国道126号線 大阪高槻京都線を横切り そのまま 北進
摂津市の市場池公園内にに大きな道標がある。 ここは摂津市
向こうに見える「イズミヤ」は吹田市

右 亀岡街道 亀岡 高槻 京都
左 小野原街道 山田 小野原 勝尾寺
左に取ると 山田 小野原である。
そのまま右に 宇野辺に向かう 。 三宅村大字宇野辺の道標

高槻街道
亀岡街道
ここで 右に折れ 奈良村、茨木村、富田村、高槻市をへて「京」に向かう。

ここでちょっと寄り道をします。
この道標をそのまま北進し、少し向かうと道標があります。

茨木宇野辺郵便局のそばにある道標
左 山田   右 亀岡
(訂正 山田街道は豊中市上新田から山田からMBSの横を通り、青葉丘北から下穂積から松ケ本町で大阪高槻京都線を渡り、JRをくぐり、下中条町で宇野辺から来た高槻街道と合流するルートが山田街道です。ですから、ここの山田への分岐は枝道となります。}
寄り道ですがこの道標で
左に取り、山田街道で万博とMBS毎日放送の谷筋の抜け万博からの道と交差する堅切山北の交差点を手前を左に取り、名神下で「小野原街道」に出会い、左に取ると市場池、右に取ると山田東1丁目にある伊射奈岐神社

道標はないが
市場池からの「小野原街道」と出会いで、そのまま西進むと佐井寺へ、(橋を渡る方向)
この辻を右に折れ山田の旧道小野原街道を北進する(信号機 赤)と
「山田三つ辻」の道標に出会う。ここまで道標は見つかっていない。
山田下村で合流する道が大きいので合流点はもっと南の堅切山、山田名神下だとおもわれる。
この2カ所にも道標は確認されていない。

小野原街道を北上すると、「三つ辻」道標 三角柱で出来ている非常に珍しい物である。
三辻の表記は   左 上新田村   をか町  いたみ
右 をの原村  みのを かちを寺 いけだ 妙見山 中山寺   とされている。
左に取り、ここからは堺布施豊中線で山田の駅を越え、津雲台から豊中の上新田村に入る。豊中です。
ここで 上新田東口道標には、「左 かつおじ  右 いばらぎ 山田」とあり、三つ辻と対になる。 
だから、上新田からはここを通り 道標が残っている枝道で宇野辺に向かい茨木を目指すことになる。
吹田市の案内板がありました。

それによりますと宇野辺からの山田街道と小野原街道の合流点は山田下村大神木(だいのき)橋袂で現在の山田名神下交差点あたりになります。 これもちょっと違うようですが別の機会に
大神木橋を渡ると祠があります。 これが次のターゲット
 

話がそれましたが、山田街道は上新田を起点とし、青葉丘北から下穂積から松ケ本町で大阪高槻京都線を渡り、JRをくぐり、茨木市下中条町で宇野辺から来た高槻街道と合流するルートが山田街道です。茨木では、宇野辺郵便局横の道標「左山田」が唯一の山田街道を指していますが、これは、枝道です。
歴史のある山田ですが、道標は1コしか存在しません。「三辻」だけです。後は、市場池の道標になります。
先ほどの山田の伊射奈岐神社では道標が見つかっていません。ですから、宇野辺の郵便局横の道標と対になる道標は「三つ辻」に行き、豊中市の上新田の東口道標の「右 いばらぎ 山田」に対応することになる。遠いですね。

街道に関して別なページ
http://space.geocities.jp/fkyws889/0709tuki2.html#kami_sin



京への道 2  高槻街道

交通網の発達した現代
 足で歩いて都・京都への道
大きな街道は京都を目指す。
 京街道は大阪市から京都へ向かう。
 西国街道も京都に向かう。

豊中から京都へ向かうことはしばらく置いて
まずは豊中市より東の北摂の村から京に向かうルートを検索してみます。
 調べると高槻街道・京街道が重要であったようである。
 大阪市を出発した高槻街道は吹田市では亀岡街道と言われ、宇野辺まで同じルートを取り、
この道標で亀岡街道と別れ高槻街道となる。

亀岡街道の宇野辺で、茨木市に入る、茨木川、安威川を渡り、富田村、堤村、高槻町、大冠村を通り、高槻市安満・八丁畷で西国街道に出会う。それ以後京都東寺へ向かう。
  陸路としてはこのルートであろうが、茨木・高槻では「渡し」への道標が多いので、
水路淀川を利用したコースも多くあったと伺える。
 

ゴミ捨て場??  呉服橋の道標

自然と歴史と文化が息づく”落語のまち池田”ハイキング
 道標「巡礼橋」のそばの道標

    ごみと一緒です どこかに持ち去られる可能性があります。

2009年4月18日土曜日

城陽市の道標

 4/9 早速 返事ありました。 土・日にもかかわらず。
    良い市ですね! 
 城陽市観光協会から回答 
   「この道標には「左うちみち」と彫ってあり、読みは「左うじみち」です。ご覧いただいたようにこれは古い道標で、多分江戸時代初めかそれ以前と云ってもおかしくないのではないかと思っています。歩かれた流れ橋から東へ伸びる道は府道ですが、これを昔は「浜道」と云っていました。道標の立っている道は府道より細い道となっていますが、この道幅が昔の浜道の巾ではないかと思います。そして「大和街道」(秀吉が軍事目的で開いたと言う旧奈良街道)を横切って宇治にいたる道です。
浜道は木津川岸に昔、船着き場があり大阪・京都方面・淀などからさかのぼって荷を運んだ舟運の拠点としていました。
陸揚げした荷は浜道を通って宇治へ運ばれたわけです。

この道標は、京都周辺・大阪・滋賀県などに沢山ある「三宅安兵衛」建立の碑とは異なり、多分江戸時代中期以前に立てられたものであろうと考えております。
なお道標のある一帯の地名は「指月」と言いますので、
この道標を「指月の碑」と言い習わしています。 」
   以上

  ありがとうございました。 初めての土地ですので分からず問い合わせしました。  もっと 調べ・勉強します。

 流れ橋 の見学の後
   近鉄「久津川駅」近く 
    『指月の碑』

   これも資料にはないのではないでしょうか!
    「左 うちみ」  これは 「宇治道」とのこと
                通称 「浜道」と言われている。

4/18 城陽市観光協会 に問い合わせ
  4/19 回答あり ・・・早い 
  
   

2009年4月15日水曜日

上新田村と高槻城下の道標

 上新田村の出口に4つの方向に道標がある。
  東西南北 現在まで4つありましたが、
  いままで、上新田村で一番西にあった道標は
    
   右 ざいしょ

   左 大坂 3里
   表示 右 ざいしょ 指示の通り行くと集落はなく、島熊山の尾根を越し、箕面に向かうので、あまりに遠いのを、ざいしょとは言わないと思っていました。左に取ると落合橋手前で左に取り旧新田小学校前を通る三国街道で大阪に向かうルートになります。ですので、分岐としては上新田村の「西の端」、旧新田小学校が大事ですから、この道標はここに移築されたものと考えていました。
 新しく見つけた道標は途中で折れていますが、明らかに三国街道と熊野田道との合流地点・分岐点旧新田小学校横「西出口」の道標で


     左 大坂
     右 くま   が はっきりと記されています。
  文化が残っていました。 上新田村  「五一会」もありましたしね!


  これと同じように、出口に行き先の道標の形態を取っているのが

高槻城下の道標
高槻城下の道標  です。 京口 前島口、大塚口、富田口、茶川口の出入り口があり道標がある。

2009年4月14日火曜日

上新田 出口道標

  上新田北出口
    馬頭観音像 「右 か」(つおじ)

   裏面
   「上」ではないか!  横棒より左下に掘りがあるように見られるが!
   周りのコンクリートを剥がすとわかると思われる。
  長老の話では 「この道を北に取ると 今の千里中央を抜け
  萱野から箕面に向かう道であった。」
  ある資料には、この道標と対になる道標が東出口よりさらに東に
 「右 みのお」 という道標があった。と記されていて、この北口道標には 「右 みのおみち」とあったと言われている。
  私もそう思うのですが、「右 みのお」であって欲しい。

2009年4月13日月曜日

京への道 1  道標から見えてくる   

千里中央から京都に行くには
  JRを使うか 阪急を使うか
  新大阪、梅田に出るか  
 又は南茨木まで行くか 
   あなたはどの方法を取りますか?

さて、昔は都(京)、京都 に行くには
江戸時代の人たちはどういう経路をたどったのでしょうか!
豊中から京都に登る道筋は
 道標からの教え

 豊中市で「京都」を示す道標は5つ 「豊中の道標」こちら
 ① 小曽根の「京」一文字の道標
 ② 豊島小学校にある能勢街道辻にあった常夜灯
    「右 京 茨木」
 ③ 原田神社近くの瑞輪寺の台座道標
    「左 京 道」
 ④ 箕面街道から「逢う阪」に折れる 柳谷道標
   「すぐ 柳谷 京 道」 ⑤ 新免から箕面街道を横切り「車坂」を降りて熊野田に行く 豊中で一番大きい道標
   「すぐ 上新田 京」
 の5つがある。
  京に近づく村名で「山田」が熊野田と上新田の2カ所「いばらぎ」が上新田、妙見宮常夜灯の2カ所、「吹田」が梵字大峰道標の1カ所
  近隣では池田市の石橋に能勢街道と西国街道の交差点の道標が
  「すぐ 大坂 京」とあり、豊中を通り、京に向かったのでしょうか?
 また、豊中を通ってから京に向かうのであろうか! 
   西国街道を通るのが普通だろうでしょうがね。 
  どちらにしても もう一つ道標が欲しいところです。
 もう一つは 箕面市の東端の小野原で「左 京ふしみ」が京都を目指す。
  道標は案内板ですが、交通路、電車の現在では使われない道標は「点」です。
   次は 「点」と「点」を結んでみましょう。
    京都への道は ・・・・・・・・・



 

2009年4月4日土曜日

道しるべ 道標

道標
 道標については
 地図のない時代には、旅人が安心して商売、旅行に出かけるのに不可欠のものであったでしょう。
道標は
街道・道の分岐にはあったようで。 また、その近くには目印となる大きな木、旅の安全などを祈る祠、旅の途中で死んだ人を弔うものも立っています。
 消えていく街道であるが、そんな点に気おつけて見ると、昔の街道が見えてくる。
 
 街道の往来は現代と同様、通勤、旅行(観光)、物流だけでなく、古くは巡礼者道が、役行者のように修行をし、死後のことを思い、全般に信仰心が高くその現われとし「講」を組み、定期的に大峰、柳谷、妙見山に参った。また、巡礼者同様に一般の人もそれを習ったようです、現代の88箇所めぐり、西国33箇所めぐりで 勝尾寺参り、役行者の天竜寺、妙見山参りとなった。
  

大坂府最古の道標 高槻市田能 巡礼道道標

2009年4月2日木曜日

街道・道  勝尾寺街道

街道の名称は情報が発達していない時代では

その地域からの『行き先』で呼ばれていた。

 有名な能勢街道は吉野街道、池田街道などと呼ばれていた。 

又通行するものによって呼び名がある場合もある。

 銀山街道、馬車街道なと

 豊中市を通る勝尾寺街道を取り上げる。

江戸時代の「豊島郡誌」絵図  作 今西玄章によると
 大阪市内からルートは2つ
箕面街道から分岐し熊野田から上新田ははっきりと表記されていない。
この地図を最初に見たときは 天竺川をさかのぼる道があった。
 箕面街道の分岐が服部より南であったのでこれは天竺川と勘違いしました。
① 高川から上新田のルート
能勢街道の道標から も説明できるが
② 箕面の滝から勝尾寺に抜けるルートの2つがある。
  豊島郡誌   今西玄章

天竺川を上るルートは表記されていない。 
   新免からのルート、原田神社ルートもはっきりと表記されていない。
   唯一 三国街道があるが 上新田をかするように描かれている。
そのほかの街道が描かれ 勝尾寺ー中山寺の巡礼道
 織田信長が有馬に向かうのに使った 有馬街道、
 伊勢街道、伊丹街道がかかれていた。


 また、明治19年の地図によると
 熊野田を通る2つのルートが描かれている。
 一つは兎川の手前で原田神社から熊野田南に入る南ルート。
 もう一つは 新免から熊野田北に入る北ルート
  南ルートは三国の天竺川を北上してきた道と兎川と合流する点で熊野田の南側で合流する。
 この熊野田の南北の2つのルートは熊野田東で一つになり上新田に向かう。
勝尾寺には 豊中からは
 箕面の滝を通るルートと熊野田ー新田ルートは三国ー新田ルート合流し勝尾寺に向かうことになる。
  いろんなルートがあるが信仰心の厚い当時の人達は山門からの参拝を希望するのが多かったと思われるので、上新田から勝尾寺に向かったと思われる。だから 上新田から今宮、新家で勝尾寺表参道を目指した物と思われる。  
 マップ
         明治19年陸軍地図
 A点 天竺川と兎川の合流点 堤防に道が確認できる。
 B点 赤坂の道標
 C点 京・柳谷の道標
以上の点から  大阪市内から
  豊中を通る「勝尾寺街道」は3ルートあった。

ただ 大阪府誌によると
 勝尾寺街道は 豊中村新免  → 熊野田村  →  新田村  →  萱野村  →  豊川村  →  清渓村  →  止々呂美村  →  東能勢村川尻(余野街道) と記されている。
  疑問 上新田から今宮に抜けるのが一番近いと思われるが
      ここでは道を少し戻ることになるが
      上新田から萱野に抜ける道は 新田の道標「北口」を通るルートが記されている。
            
もっと新しい資料によると 道標編 昭和50年の地図
天竺川の街道 が書かれている。
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「見本のまち」 上新田の見どころ  旧新田小学校; 食事処  2010年2月19日金曜日

新田のとんど                      2013年1月19日土曜日
竹藪がなくなる。 上新田  変貌する町並み   2012年8月13日月曜日

追加 2012/05/06
天竺川 橋 八坂橋より上新田       2012年5月4日金曜日
ニュータウンの地蔵尊            2012年5月5日土曜日
祭り とんど祭 上新田 (無形民俗文化財)  2010年1月14日木曜日
続きルート  追加
追加  2012/03/25 
勝尾寺へあなたはどのルートを取りますか


 

能勢街道 案内板5

案内 
阪急豊中駅前  見つけました。
能勢街道
思い