先日 下記のメールを福知山市に送りました。
送付当日は
「ドッコイセ福知山花火大会」の日で 市の職員全員が総がかりであったはずですが
そんな中 2日後には メールを頂きました。 私 メールをチェックしていますが
「おそいな おそいな 」と思っていました。 迷惑メールに入っていました。
大変失礼をいたしました。
以下 依頼のメール 15日
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私、「北摂の道標」を調べています。もう一年前になりますが、吹田市江坂で
見つけた道標の旧所在について福知山市役所に問い合わせた者です。市の対応により、
福知山城郷土資料館よりご指導を頂き、調べた結果 この道標の旧在所は福知山市上天
津の175号線(旧宮津街道)と府道527号線の交わる三叉路にあったものと推
測されました。その節はいろいろお世話になりました。
その内容は 下記のブログにて紹介させてもらいました。
http://katuozi.blogspot.jp/search/label/%E6%B0%97%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%9F%B3%E7%89%A9
その道標に関しましてもう少し、確証を得たいので 次のようなことをお頼み
申し上げます。
なぜ 上天津の道標が約100キロ離れた大阪府吹田にあるのか疑問ですが
1.建立者 「当村願主 松原庄右衛門」者を探してもらえないか。
2.上天津あたりの江戸時代の旧村名が分かりました教えてください。
3.上天津のその他の道標 福知山市史道標編 に記載の道標以外の物
4.上天津の郷土史家を紹介していただきたい。
(右面) 文政十二年
(正面) (僧像) 右 みや津 七リ なりあいへ 九り
(左面) 当村願主 松原庄右衛門
よろしくお願いします。
返信メール 17日受信
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1 「松原庄右衛門」は不明です。
2 「上天津」の江戸時代の村名は、正保郷帳(正保4年-1647)では「天津
村」(1280石、上天津村・下天津村をあわせた村名)。慶安2年(1649)「福知
領御朱印高・浮之高・家数人之員数帳」では「下天津村」(241.635石)と記載
されていますので、江戸時代の村名は「下天津村」です。
3、4 その他の道標、郷土史家
天津の赤井信吾先生を御紹介します。事前に照会についてはお伝えしてあり
ます。
以上、よろしくお願いいたします。
福知山市 □□□□□ より
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9/02
延々36分間の電話
紹介された 赤井さんに電話 赤井さんは上天津の自治会長をなされていて、
郷土史には詳しい方でした。 私の資料が欲しいということですが
インターネットをやられるのであれば 「北摂の道標」で検索してください。
要件について概略
上天津には道標はない。
上天津には松原という姓はないとのこと。
資料をお送りすることで電話を置きますが その前に
「一度 福知山においで下さい。」 この言葉、前にも聞いたことがある。???
そうだ
福知山城郷土資料館のカワモトサンも
「一度 福知山においでください。」と
2011/8/29 宮津へ調査に 2012/8/2 福知山訪問
自分の郷土を愛していることでしょう えらいな
私たちは 「一度 吹田においでくさい。」と云わねばなりません。
もう一つは 元興寺研究所の
狭川真一さん
「一度は 奈良においでください」と いわれ、
奈良正倉院展へ
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8/28
もう10日も経っていて 私が返事しないのが 遅いと思っておられるでしょう
あす、担当者には 電話でお詫びをします。
今年の夏 福知山に行きました。
明智光秀の福知山城へ
歩くとなにかが 福知山探索
残り少ない 夏休みですが これを確認の為福知山に行かなければなりませんか