室生寺へ
向こうに見えるのが「又兵衛桜」終わっていました。
宇陀水分神社
Q 「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」という俗謡があるようですが、滋賀県の多賀大社と三重県の伊勢神宮とのつながりは何でしょうか。
(平成七年八月 県内行政機関)
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A 滋賀県犬上郡多賀町にある多賀神社(昭和二十二年多賀大社と改称)は、平安時代の『延喜式』に「多何神社二座」と見え、この頃までに二神が祀られていたことがわかります。そして、多賀神社への参拝は、「多賀神社文書」などの史料では十五世紀の末頃からたどれますが、早くから「お多賀さん」と親しまれ、広く信仰を集めていたようです。 こうした信仰の広がりには、中世の「蟻の熊野詣」と言われるほどにぎわった熊野への参詣やその後の伊勢参詣とも関係があるのかもしれません。そのあたりを少し考えてみましょう。 まず、問い合わせの「お伊勢お多賀の子でござる」ですが、これについては、多賀神社の祭神が伊邪那岐・伊邪那美大神で、この二神は成婚して伊勢神宮の祭神である天照大神を生んだという神話が『古事記』などに伝わっており、伊勢神宮や多賀神社への参詣が多くなるにつれて、こんな俗謡ができたと思われます。また、「お伊勢参ればお多賀へ参れ」は,多賀神社への参詣誘致で、さらに「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、お多賀さまへは月まいり」とも歌いはやされ、盛んに多賀神社の宣伝を行い、その信仰が拡大されていきました。 特に、「同宿輩(坊人)」たちが全国的に勧進をして回ったことが大きな宣伝効果となったようですが、伊勢神宮での「御師」(おし・おんし)(たちの布教活動と同様の活動が行われていたわけです。全国各地に大般若講や延寿講などの多賀講が組織されたのも、伊勢神宮の参宮講や神明講などと同じです。御師とは宿坊の経営や参詣人の案内を兼ね,信仰の普及にも寄与した。伊勢では「おんし」という。 なお、こうした講は江戸時代中期以降に多くなりますが、一方では、信仰の名を借りた物見遊山の旅行という面もあったようです。行き先としては、伊勢神宮・熊野三山を筆頭に、各地の神社寺院が選ばれました。こうした参詣、物見遊山が流行していく中で、伊勢参りの往き帰りに多賀神社へもあわせて参詣する人々も増加するという現象も見られ、互いにつながりを持っていたと言えます。 伊勢街道 旧旅籠〔あぶらや〕諸木野関所跡 伊勢表街道三本松の町屋 札の辻 日本最古の井戸杉〔高井千本杉〕
伊勢参宮は平安時代から盛んで、室町から江戸時代には伊勢講で賑わいをみせ、御陰参り(一種の無銭旅行)も爆発的に流行し、街道筋でも施行されていました。大阪や奈良から初瀬を経てこの地に入り、国学者の本居宣長も宿泊したという旅籠「あぶらや」前の「札の辻」で街道が二手に分かれ、南進する「伊勢本街道」は高井から千本杉・石割峠から御杖村を経て伊勢へ。東進する「伊勢表街道(初瀬街道)」は三本松、名張・青山高原を越えるため「あを越え道」とも呼ばれていました。現在でも、当時の面影が残る街道は、多くのハイカーに利用されています。
松山街道 薬の館 松山西口関門 大宇陀の街並み
かつて城下町として栄えた旧松山地区には、情緒豊かな歴史的町並みが残されています。その街道筋である「松山街道」は、南進すると「南路伊勢街道」を経由して「熊野街道」へ。東進すると高見越えで「和歌山街道」へ。北進すると榛原を経由する「伊勢本街道」へ通じるなど交通の要衝でした。これらの道は伊勢参宮のほか、伊勢や熊野から魚や塩、また宇陀松山からは宇陀紙や葛・油・薬などを運ぶ重要な役割を担っていました。
和歌山街道:和歌山から高見山をめざす。 国道24 橋本 吉野 高見トンネル 国道166号線 |