皆様へ
前々より横関街道の通行量を知りたいと思っていましたが、山口さんからのきっかけをいただき
横関渡しの数字で算出してみました。
一般の通行量は太閤殿下のころから「2文(銭)」と決まっています。
六郷渡しの試算では荷物込みで20文になっていますが、大阪市史の資料では馬荷は40文以上です。
大阪市大の「淀川横関渡関係文書」の中の寛保3年(1743)の文書に村への運上銀の記載があります。
濱村へは50匁増額して計125匁、南方村へは75匁上納しています。
取り分は半々として計算します。
金1両(8万円)=銀60匁=銭4000文 1文=20円 幕末にはぐっとインフレになります。
横関渡売上金 銀400匁=26,666文 2文で割ると 13,333人(年)
ただ横関渡しは2艘の船、署名は宇兵衛さんだけ、別の文書で1年180日勤務の記載があるので、
上記数字は半年、1人文と推測しました。
1日 74人 となります。
これには公用のお役人は含まれません。荷物もそうなります。
昼間だけでしょうから結構、多いように思えます。
横関渡はこの後、利用者が増え、長柄渡や十三渡などと客の奪い合いで訴訟合戦となります。
とりあえずこんな数字を出してみました。
山さんより返事
試算ありがとうございます。
個人的な単純な思い付き・疑問でお手数おかけしてすみません。
275年前は
横関の渡しで ざっと100人/日くらいのようですね。
往復での人数?かな???
1日を10時間とすると
10人/時
1.5人/分 結構多いですね。
渡しの箇所は賑やかだったのでしょう。
待ち時間に一服 今風に言うと喫茶店や食事処が
あったのでしょうね。
蔵人の横関街道の通行量は
さっぱり想像がつきません。
ここを通って渡しを渡った人間は少ないでしょうね。
主は生活の道ですから
地元の人間がほとんど
想像・妄想の世界です。
情報
昨日 自転車に乗った年輩の男性が
自宅の地蔵のことで 「夜泣き地蔵だったのか?」との
質問を家内にしたらしいです。
誰だかわかりません。
参拝に来られたのかな・・・・
上村さんのブログのおかげでしょうか・・・???
6月頃 お賽銭が 10円玉が 置いてありました。
平さんより返事
一応往復の人数になります。
対岸の本庄村の方はここには渡し船はなく、下流すぐに本庄の渡しがありました。
横関渡・濱村側の堤防の上には渡し守の家が2軒だけ立っていました。(古文書あり)
榎木の渡しには榎坂側に茶店が1軒あったようですから、横関にも何かあったのでしょう。
ただ大坂市中よりすぐですので、ゆっくり休んでいくというところではありません。