(南) かちをうし
(西) 南無阿弥陀仏
(北)
(東) 為万人講衆中法界
写真はない。
これら消失した道標4基については、
「昭和38年の豊中市史編纂当時、市内道標の一部を調査し、これを地図上にメモしたものが残っている。」で紹介されている。
それによると
30.樫の木池北東、勝尾寺と野道との三又路
新千里北町2丁目
(西) 南無阿弥陀仏
(北)
(東) 為万人講衆中法界
写真はない。
これら消失した道標4基については、
「昭和38年の豊中市史編纂当時、市内道標の一部を調査し、これを地図上にメモしたものが残っている。」で紹介されている。
それによると
30.樫の木池北東、勝尾寺と野道との三又路
新千里北町2丁目
住所から「上の立石」のことが書かれている。
さて記載について別な資料 本「野の仏」大阪読売新聞には。
この道標は江戸時代のものであろうと記されているが
上記の(西)、(東)面の記載はない。下の写真でご確認ください。
これが、「上の立石」を「野の仏」が紹介している写真です。
彫が深い、南面には「(馬頭観音像)右かちをじ」 東面には 文字らしくものはない。
大きいので立石と言われ、道標編30で記載されているのはまちがいと考えられる。
この道標は江戸時代のものであろうと記されているが
上記の(西)、(東)面の記載はない。下の写真でご確認ください。
これが、「上の立石」を「野の仏」が紹介している写真です。
彫が深い、南面には「(馬頭観音像)右かちをじ」 東面には 文字らしくものはない。
大きいので立石と言われ、道標編30で記載されているのはまちがいと考えられる。
道標編30の項は一部間違って書かれている。
(西) 南無阿弥陀仏
(東) 為万人講衆中法界
これ項は面は違うが、私が見つけた「新田西口道標=旧新田小学校北東道標」に記載されているものとほぼ同じである。 行先の方向は 左・右の表示がなく、この道は 「かつおじへの道」を指している。
(西) 南無阿弥陀仏
(東) 為万人講衆中法界
これ項は面は違うが、私が見つけた「新田西口道標=旧新田小学校北東道標」に記載されているものとほぼ同じである。 行先の方向は 左・右の表示がなく、この道は 「かつおじへの道」を指している。
新田西口道標 の記載 下部欠損
(東) 左大坂
(南) 南無阿(弥陀仏)
(西) 為万人(講衆中法界)
(北) 右くま(のだ)
とあるので、面が違うが、こちらの銘を間違って記載されたものと思われる。
箕面市に同じ人(万人講)が立てたものが2基あり
それらから補足すると
(南) 南無阿弥陀仏
(西) 為万人講衆中法界 願主岸◇ となる。
後の二面は 左・右の行先を表示
箕面市の2基は 勝尾寺から大阪へ帰る道沿いに立っている。=大阪道
万人講①は 勝尾寺表参道の 2町石と3町石の間に立っていたもので
右側に分かれ道があり5歩ほど歩くと左側に立っている。
万人講②は、西国街道を西に取り、今宮で大阪と別れるところの立っている。
万人講③は、上新田「西口道標」 =「新田小学校北東道標」
西口道標で 右に取ると 熊野田から豊中へ
左に取ると 高川から小曽根・横関街道にて、大阪へ
万人講④ 吹田で見つかった 「万人講道標」
万人講④ 吹田で見つかった 「万人講道標」
江坂 素盞嗚尊神社 油掛け地蔵横の石物郡
旧在 三国街道と横関街道三叉路か 三国街道を少し行ったあたりに建てられた物
旧在 三国街道と横関街道三叉路か 三国街道を少し行ったあたりに建てられた物
と考えられる。
表記
「かち(をうし)」
表記
「かち(をうし)」
「為万人(講衆中法界)」
「南無阿(弥陀仏)」 下部欠損 これが本「豊中の文化財 道標編」30番の記載されている。
万人講道標は 勝尾寺から大阪への帰路案内で 要所要所に建立
「南無阿(弥陀仏)」 下部欠損 これが本「豊中の文化財 道標編」30番の記載されている。
万人講道標は 勝尾寺から大阪への帰路案内で 要所要所に建立