2021年12月22日水曜日

南部忠平 吹田の人

南部忠平 1904~97

 大阪毎日新聞運動部長、住所 吹田市千里山
 1904年明治37年生まれ
 1928年 アムステルダムオリンピックで男子三段跳びで4位入賞
 1932年 ロサンゼルスオリンピック 男子三段跳金メダル
                   男子走り幅跳び 銅メダル
      5・15事件 犬養毅が殺害される。
 1964年
 1966年 昭和41年 北海道女子短期大学(北翔大学)
 1984年 鳥取女子短期大学学長ハーレー・ダビッドソンで自宅の吹田市から鳥取女子短大
 1990年 
 
 1997年7月23日 肺炎  93歳

 2018年 妻 南部久子 106歳で死亡

2018年12月5日 国際陸上競技連盟が顕著な実績を残した先人をたたえる「ヘリテージ(遺産)プラーク(飾り額)」を新設し、1932年ロサンゼルス五輪金メダリストの故南部忠平氏が選ばれた

 南部忠平杯くらよし女子駅伝競走大会

 昭和16年1941 一人娘 千里第二国民学校入学 
 昭和22年 18期生昭和22年卒 東京の千里山会 名敦子 1948年
 昭和45年 交通事故で死亡 29歳 2児の母 1970年 1931年生まれ 

92歳で砲丸投げに挑戦 故・南部忠平さんの妻久子さん
  第25回全日本マスターズ陸上競技選手権鹿児島大会(日本マスターズ陸上競技連合、朝日新聞社など主催)で13日、今大会の女性最高齢の南部久子さん(92)=大阪府吹田市=が砲丸投げ(90~94歳)に出場し、2メートル93を記録した。自身の日本記録(3メートル32)には届かなかったが、「楽しかった」とうれしそうな表情をみせた。
 夫は32年ロサンゼルス五輪三段跳び金メダリストの故忠平さん。80歳の時、「出場者がいないから」と同連合の役員に頼まれ、砲丸投げを始めた。忠平さんには「足に落とさなければいい」とアドバイスを受けた。
 34年前、短距離の陸上選手だった一人娘の敦子さんを、交通事故で亡くしている。
 「2人の後を私が継いでいるようなもの」
 年とともに足腰が衰え、ふだんは立ち上がるときも支えが必要だ。それでも、家族とのつながりを思いながら、重さ3キロの砲丸を力いっぱい投げた。
 来年は地元・大阪での開催。出場を楽しみにしている。
 
 南部敦子選手の主なる記録   (日本陸運調べ) 転写
昭和27年7月 五種競技 日本新記録  於京 都
  〃   10月 〃   更  新      於岐 阜
昭和28年10月 〃   更  新       於神 官
昭和29年5月 一〇〇米 優   勝    於マニラ
    〃   二〇〇米 準 優 勝
    〃   走幅跳び 準 優 勝
  〃   10月 五種競技 日本新記録  於京 都
《女子五種競技》 砲丸投げ 走高飛び 二〇〇米 八〇米ハードル 走幅跳び
[アジア大会(マニラ)では競技種目になし]

南部敦子さんに捧ぐ

南部 敦子(なんぶ あつこ、本名:糠澤敦子、1934年 - 1970年10月5日)は、日本の陸上競技選手。アジア大会陸上女子100m金メダリスト。1950年代を代表する選手として活躍した。大阪府千里山出身。京都光華高等学校卒業。南部忠平の長女。

訃報 南部婦人

大正13年北海中学の卒業生の中に、その後40余年越えられる事の無かった、オリンピック史上でも稀有な大記録を打ち立てた「南部忠平」(1904~1997)先輩がいらっしゃられました。

 昭和7年(1932)に開催されたロサンゼルス・オリンピックの三段跳びに出場し、「15メートル72」の世界記録を樹立して金メダルに輝いた偉業は、北海中学に在学中に、全国中学生大会で、100メートル、走り幅跳び、三段跳びに連続優勝をはたした事からも、天賦の才が溢れて居た事は間違いないのですが、卒業式のこの時に、不滅の世界記録を予想した者は居なかったのです。
南部先輩は、当時札幌でも有名な「三国屋」の三男として生まれ、「やんちゃ」「腕白」を絵に描いた様な子供で、小学校4年生頃から始めた乗馬に夢中になり「三国屋の馬忠」との陰口
まで叩かれ程で、勿論、勉強には全く興味を示さなかった。
その後、北海中学・札幌一中(現・札幌南高)を三度受験するも失敗、そしてやむなく東京の中学に滑り込んだが、数ヶ月で肋膜炎を患い、札幌に戻り静養生活を送る事となりました。
そんな南部先輩を、転校という形で受け入れたのが、南部先輩の父上と親交のあった、当時の北海中学の校長「戸津高知」でした。
以後、南部先輩は「とっつあん」の渾名で生徒達から愛されていた、戸津校長を生涯、恩師として尊慕したのです。南部先輩の著書「紺碧の空に仰ぐ感激の日章旗」の中で、次の様に記しています。

「私がこのように、夫々の個性を大切にするとともに、自分に自信を持つ事にこだわるのは、長い陸上生活を通じて身につけてきたことなのだが、その大元は、父と北海中学の戸津校長にあったと思う。
戸津校長は「学業の優等生より、社会の優等生になれ」が口癖で(中略)どんな乱暴な生徒にも、できるだけ長所を見つけ出すようにして下さった。」
「何よりも自由奔放なこの学校の校風が、私の病気にとって一番いい薬になった」

転入当初こそ病み上がりと言う事もあったが、二年の半ばには体力も回復し、徒歩部入りした頃には、
「すっかり昔の乱暴者にかえっていた」言うほどの「悪童」であったのです。
そんな南部先輩が先輩達から、豊平川岸の北中グランドに呼び出されたのは必然だったのかも知れません。
「先輩を先輩とも思わん不遜な態度がけしからん。活を入れてやろう」という思いと、それ以上に、踏み台なしにひょいと馬の背に飛び乗る「あくたれ坊主」の足腰のバネが気になっていたのでした。
鉄拳制裁覚悟の南部先輩の目の前に、先輩がスパイクシューズを差し出されたが、初めて見るスパイクを
怪訝そうに眺め「そんな薄気味悪いもんはいらん」とばかり、素足に細い藁縄をグルグル巻きにした。
グラウンドと言っても元々は豊平川の河原ででこぼこの上に、石ころがゴロゴロしているコースを、それで走ろうというのだから、先輩達は当然呆れた。
「ガッテンショー、ドン」の掛け声が響いた。
(「ガッテンショー」は、「アテンション」からなまったらしく、当時の北海道では、これが「ヨーイ、ドン」だった。田舎の運動会では号砲の「ドン」が猟銃だった時代です。)
舞い上がる土煙の中から飛び出し、先頭でゴールしたのは、素足に藁縄の「悪童」だったのです。
負けた先輩が「忠ちゃん、凄い、必ずチャンピオンになれる」と感激して飛びつき「ちゃん」付けで褒め上げた。「あんまり、おだてるものだから、つい、徒歩部入りを承知する事になってしまった」
後の著書や講演で述懐する南部先輩がいました。

こんなエピソード後の南部先輩の成績は、日本が生んだ最強のアスリートと呼ばれる事に相応しかったのです。
全国中学陸上協議会(南部先輩四年生)
・四種目で一位入賞、個人総合でも優勝し全国に「北中に南部あり」他校から恐れられた。
・五年生では、主将として悲願の全道制覇を目指すも僅差で惜敗。
 責任を感じた南部先輩は、雪辱に燃え、なんと留年を決意して翌年に向い猛練習を重ねた
・南部先輩六年目の時の、校内報「協学会誌」には、次の文面が踊った。
 「血涙忍びて一星霜(中略)臥薪嘗胆の効空しからず、拾幾春秋憧れの桂冠は遂に北中を輝かしむ」
 この年の南部先輩の活躍は凄まじく、「彼の出場するや無人の境を行くが如く常に味方の士気の鼓舞
 し敵軍をして心胆を寒からしめた」
「波乱に満ち、しかも、その後の人生に決定的な影響を与える事になった」と南部先輩が後述した、北中
時代が終わりました。
実は、その頃南部先輩は既に大店の御曹司ではなかったのです。三国屋は倒産、父親も病で世を去った。
止む無く進学を諦め、札幌鉄道局に就職したが、世が逸材を放っておくはずもなく、特に熱心だった早稲田大学で、受験を渋っていた南部先輩の背中を押したのが「せっかくの才能を磨け。後のことは心配するな」という、戸津校長の一言だったのです。
「北中の南部」から「日本の南部」へ。

 そうして、更なる躍進のために早稲田大学に進み、競争部で本格的な指導を受けることになりました。先輩や仲間たちと、100メートル、200メートル、走い幅跳びを中心に汗にまみれながら練習を続けましたが、スランプというのか、周囲の期待に反して記録はいっこうに伸びませんでした。一時は絶望して、もう陸上競技などやめてしまおうと思ったこともあったそうです。
 南部先輩は、考えるところがあって、時間があれば動物園に行き、猿の檻(オリ)の前にじっと立って、猿の動きを見つめていました人間と非常によく似たからだの構造をしていて、しかも人間よりも何十倍も敏捷(ビンショウ)な動きをみせる猿の行動から、なにかが学べるのではないかと思ったそうです。
 動物園に通うようになって何ヶ月かがたったとき、ぐっすり寝込んでいた猿がほかの猿に突然驚かされ、あわてて逃げる様子を見ました。最初、驚かされた猿の後ろ足の膝は大きく折り曲げられていましたが、あわてて走りながら跳んだとき、その後ろ足は、普通の状態で跳んでときよりも曲げ方が少なかったのです。
 「この猿の動きから、わたしは跳躍と助走速度のバランスの取り方がいかに大切かを学んだのです」
 と南部先輩は仰っていました。何度も試行錯誤を繰り返しながら、自信のない自分に鞭打って練習を重ねました。そしてついに自分のフォームを完成したのです。
昭和六年に樹立した走り幅跳びの日本新記録はその後40年近くも更新される事が無かったほどです。
そして、翌年南部先輩は全国民の期待をその小柄な背中に一身に受け、ロスアンゼルス五輪大会に出場し、遂には前述の通り、ゴールドメダルを勝ち取ったのです。世界新記録を引っさげて。

まさしくその生き方は、その後の生涯を通じて母校北中校風「百折不撓」でした。
南部先輩が、世界新記録を樹立した昭和7(1932)年から、丁度40年後の昭和47(1972)年
には、母校北海高校のお膝元で開催された札幌冬季五輪で、日本中が歓喜した「日の丸飛行隊」の名で
ジャンプ競技で一位から三位迄の表彰台を日本選手が独占しました。
その中で2位銀メダルの表彰台には、北海高校の「百折不撓」を受け継いだ「今野昭次」がいました。

最後に南部先輩に関るエピソードを二つご紹介させて頂きます。
先ずは、南部先輩の奥様久子様が新聞載った際の記事を載せさせて頂きます。

92歳で砲丸投げに挑戦 故・南部忠平さんの妻久子さん
第25回全日本マスターズ陸上競技選手権鹿児島大会(日本マスターズ陸上競技連合、朝日新聞社など主催)で13日、今大会の女性最高齢の南部久子さん(92)=大阪府吹田市=が砲丸投げ(90~94歳)に出場し、2メートル93を記録した。自身の日本記録(3メートル32)には届かなかったが、「楽しかった」とうれしそうな表情をみせた。 
 夫は32年ロサンゼルス五輪三段跳び金メダリストの故忠平さん。80歳の時、「出場者がいないから」と同連合の役員に頼まれ、砲丸投げを始めた。忠平さんには「足に落とさなければいい」とアドバイスを受けた。 
 34年前、短距離の陸上選手だった一人娘の敦子さんを、交通事故で亡くしている。 
 「2人の後を私が継いでいるようなもの」 
 年とともに足腰が衰え、ふだんは立ち上がるときも支えが必要だ。それでも、家族とのつながりを思いながら、重さ3キロの砲丸を力いっぱい投げた。 
 来年は地元・大阪での開催。出場を楽しみにしている。 
(11/14 10:35)

もう一つエピソードを紹介致します。

五輪の金メダリストとなった南部先輩は凱旋帰郷し、盛大な歓迎をうけながら北海道内各地を講演して回っていました。
付き添ったのは、還暦を過ぎた戸津校長。途中ちょったしたハプニングが起きたのです。
戸津校長が列車から降りる際、足を痛めてしまったのです。
以後の旅行中「時の英雄」南部先輩自身が戸津校長を背負って歩いた。
「忠平君におぶってもらおうとは・・・夢にも思わなかった」
かっての悪童の耳元で「とっつあん」は、何度も何度もそう呟いていたそうです。


0 件のコメント: