2016年6月2日木曜日

聖徳太子 原稿 五畿七道

卑弥呼の鏡  銅鏡百枚
和泉黄金塚古墳(和泉信太山)  「景初三年」けいしょう西暦239年

人 口(人) 世 帯(世帯
豊中市 386,229 167,708
池田市 99,224 41,827
吹田市 345,501 145,987
阪南市 59,469 21,700
島本町 29,362 11,372
豊能町 25,259 8,676
能勢町 13,643 4,513
忠岡町 17,556 6,804
熊取町 43,724 15,206
田尻町 7,290 2,842
岬町 19,148 7,592
太子町 14,497 4,918
河南町 16,814 5,806
千早赤阪村 6,767 2,260


叡福寺:聖徳太子御陵  真言宗系の単立寺院 開祖・聖武天皇

誕生 574年 2月7日 死去 622年4月8日 
紙幣 1930年昭和50年 百円紙幣       累計 7回
    1958~昭和331984昭和58年C一万円
  唐本御影(とうほん みえい)は、聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画。聖徳太子及び二王子像(しょうとくたいし および におうじ ぞう)とも称される。百済阿佐太子の前に現れた姿を描いたとの伝説により阿佐太子御影 (あさ たいし の みえい)とも呼ばれる。
法隆寺が所蔵していたが、1878年、「法隆寺献納宝物」の1つとして皇室に献納し、現在は御物

 冠位12階  17条憲法  天皇中心の中央集権国家 仏教を厚く信仰
 聖徳太子は没後 100年以上 751 の 「懐風藻(かいふうそう)」
ようこそ太子町へ 「和をもって貴となす」とうとしとなす 17条憲法の第1条に出てくる言葉
用明天皇の第二王子 母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ
夫人 膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ
推古天皇によって建立され、奈良時代 聖武天皇が大伽藍を整備した。724年
織田信長の兵火によって全焼  後陽成天皇の勅願 豊臣秀頼の聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興された。
太子の忌日(きにち) 死んだ日 毎年4月11日、12日の大乗会式(地元ではえしき)には「太子まいり」として多くの人でにぎわいます。
古墳には母親穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ) 妻 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ) の3人が一緒に葬られた「三骨一陵」の墓

日本仏教の祖ともいうべき聖徳太子の墓所があることから、空海親鸞日蓮など新仏教の開祖となった僧たちもこの寺に参籠したことが知られている。

「中之太子」野中寺曳野市野々上五丁目9番24号 高野山真言宗
「下之太子」大聖勝軍寺だいせいしょうぐんじ 八尾市太子堂3-3-16 高野山真言宗

四天王寺 荒陵(あらはか)寺 山号 荒陵山 救世観音菩薩(くせかんのん) 七大寺(法隆寺と四天王寺)  推古天皇593年 八宗兼学(日本の仏教の8つの宗派の教義を併せて学ぶことを指す。) 和宗総本山  伽藍配置は法隆寺同じ。587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。


「彼岸会(ひがんえ)」とは春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。
彼岸の始めの日を「彼岸の入り」といい、終わりの日を「彼岸の明け」といいます。この間先祖の霊を供養し、墓参などが行われます。
彼岸(ひがん)とは、煩悩を脱した悟りの境地のことで、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」といいます。
彼岸の仏事は浄土思想に由来します。
-西方極楽浄土-
極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると浄土思想で信じられています。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりです。

お彼岸に仏教行事が行われるようになったのは、浄土思想が盛んになる平安時代中期のことです。
春分、秋分に、沈む太陽を見て、上記に示したように西方極楽浄土を思い描く「日想観」という修行が盛んに行われます。
この修行をすることで極楽浄土に行けるとして、寺々ではしきりと法要を営むようになります。
特に大阪の四天王寺の西門は、極楽の東門に通じていると信じられていたため、多くの人が西日を拝みに集まったといいます。
宝永2年(1705)に奉納された布忍神社の「布忍八景扁額」の二景「孤村の夕照」に「ながいかげ のびしにしびの 下界かな」という廻文があります。上から読んでも下から読んでも同じです。この句は、「極楽浄土から照る西日で出来た影が伸びる東、私たちが住んでいる下界がこの世なのですよ」と言ってるのです。
私たちには祖先から「夕陽を愛でる」という習慣があったのです。それは極楽浄土に対する憧れだったのでしょう。
四天王寺では西日を拝んだあと、西方極楽浄土を目指して歩き出し、そのまま大阪湾に入水する事も多かったそうです。下記に記す天王寺の七坂はまさに西方極楽浄土に通じる坂だったのです。
沈む太陽や朝日を拝むということは、西方極楽浄土の仏教思想と、生まれる事の象徴としての産霊(むすひ)思想とが混沌として生まれたのでしょう。
春分、秋分の日に「日迎え、日送り」という太陽に向かって一日歩き続ける行事もありました。

聖霊殿 国重要  聖霊殿は太子堂とも呼ばれ、聖徳太子の十六歳像を祀っています。縁高欄擬宝珠によって、慶長8年(1603)に豊臣秀頼が伊藤左馬頭則長を奉行として再建したことが知られています。昭和52年に国の重要文化財に指定されました。

金堂 府指 重要文化財となる聖霊殿と多宝塔の間に位置し、如意輪観音を本尊としています。小屋裏に残されていた棟札から、享保17年(1732)に再建されたことが明確で、この棟札と共に大阪府指定文化財となっています。


多宝塔 国指 承応元年1652 聖霊殿から約50年遅れる承応元年(1652)、江戸の三谷三九郎によって再建されました。立派な木材を使用し、近世では正統派に属する端正な多宝塔として、昭和52年国の重要文化財に指定されました。 

 日本独自のものといわれている。 中央部平面が円形を指すものが多い

 石山寺多宝塔(国宝)のように大日如来を本尊として安置する例が多い。鎌倉時代
 平安時代初期に空海高野山に建立を計画していた毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)にその原型が求められる。この塔は空海の没後に完成し、その後も何度か焼失と倒壊を繰り返して、現在高野山にある塔(大塔または根本大塔と呼ばれる)

   一般に裳階(もこし)付き単層塔 庇状(ひさし)構造物。別名:雨打(ゆた)建物を実際より多層に見せることで外観の優美さを際立たせる効果がある

鐘楼(しょうろう) 府指 境内中央部から一段高いところにある鐘楼は、肘木絵様と木鼻が慶長8年(1603)再建の聖霊殿と良く似ており、17世紀を下らない建造と考えられます。金堂と共に、平成13年に大阪府の指定文化財になりました。

隔夜堂(石造阿弥陀如来坐像) 府指 隔夜詣(かくやもうで)修業 明治の初めまで

  奈良:新薬師寺の奥のと長谷寺

  比叡山最澄 天台宗 千日回峰行(せんにちかいほうぎょう) 修行で 百日回峰行 7年
山門の道を隔てて向いに隔夜堂という小さなお堂があります。お堂の本尊は石造阿弥陀如来坐像で、平安時代末期の作と言われており、昭和45年に大阪府文化財に指定されています。
15 応神天皇
16 仁徳天皇
(26)継体天皇 朝鮮半島 任那(みまな) 

29 欽明(きんめい)  父は継体天皇  571没

30 敏達天皇陵 585没 前方後円墳 上宮学園南方
31 用明天皇 587没  - 聖徳太子
     32 崇峻天皇(すしゅんてんのう 桜井市 倉橋
33 推古天皇 628年没 初めての女帝   葉室塚古墳 二子塚古墳
   日本書紀推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」
    古市古墳群と百舌鳥古墳群 大きな古墳 16代仁徳天皇陵(大仙陵古墳(だいせんりょうこふん))・15代応神天皇(誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)
    長尾街道は後に北側に作られる
    堺(大小路交差点=大道筋交点)起点  
    長尾街道交点 - 長尾神社(葛城市)
 
   この後 岡本宮へ その後 板葺宮  645 難波宮
36 孝徳天皇  山田上の山古墳 645 乙巳の変(いっしのへん)大化の改新
   650 難波の宮へ
   667 大津宮     784 長岡京  794年 藤原宮
   810 平城京 薬子のへん(くすこ) 平城上皇の剃髪(ていはつ):
       平城太上天皇の変(だいじょうてんのう)

二上山 「サヌカイト」 石棺・礎石 凝灰岩製ぎょうかいがん 多く使われた。高島市 
     二上山博物館 香芝市ふたかみ文化センター
      今城塚古墳、高島の円山古墳

    ピンク色の石棺は 阿蘇 去年行った高島の鴨稲荷山古墳、甲山古墳の石棺
             今城古墳   

      雄岳 天武天皇の子 大津皇子が祭られて祀られている。

その他の古墳 刳抜式の石棺(くりぬき)
 二子塚古墳 7世紀  側壁に漆喰を塗って 推古天皇と竹田皇子の合葬墓(がっそうぼ)
 

小野妹子 第2回遣隋使 607年
  日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや、云々

竹ノ内街道    岩屋峠 
 613 丹比道(たじひ) 
 
 奈良の横大路
 朱雀大路(すじゃくおおじ)・難波大道  




  1. 樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
  2. 鳥が巣を造らない。
  3. 大雨が降っても御廟の土が崩れない。
  4. 御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
  5. メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(天喜2年(1054年))に発見された。
  6. 御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
  7. 寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。



南大門の南側には聖徳太子の3人の乳母を祀る日本最初の尼寺とされる西方院がある。
 聖徳太子の乳母だった日益(ひます:蘇我馬子の娘)、月益(つきます:小野妹子の妹)、玉照(物部守屋の妹)の三人が聖徳太子の死後、出家し、それぞれ善信、禅蔵、恵善と称し(三人を総称して三尼公と呼ばれている)太子菩提のため太子廟の近くに寺を建てたのが創始とされ、創立は聖徳太子の死去した年、推古30年(622年)といわれている。
また聖徳廟と南大門の延長線上の南側にある南林寺は叡福寺の四季講堂であったといわれている(南林寺パンフレットより)。


府立 近つ飛鳥博物館  一須賀古墳群(いちすかこふんぐん) 太子町葉室
一須賀古墳群 6から7世紀 百済・漢人系 262基 10メートル 20メートル 円墳
 横穴式石室 
3大群集墳 
 高安古墳群(たかやすこふんぐん)八尾市 200基 蘇我氏 渡来系集団 
 平尾山古墳群(ひらおやまこふんぐん)柏原市高井田 6世紀から7世紀 1200基 物部氏 渡来系集団

駒ヶ谷遺跡 弥生式時代後期 村跡
割竹形 舟形 長持形 家形
家形石棺 石材を刳り抜いたものと組み合わせたものがある
  二上山白色凝灰岩・阿蘇ピンク石凝灰岩・竜山石凝灰岩 
  高島町の「鴨稲荷山古墳」は6世紀 二上山白色凝灰岩 家形
  阿蘇ピンク石凝灰岩 今城古墳


山田寺といわれる仏陀寺の境内 蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝えられていますが、
せん?? 長さ33cm・幅24.5cm・厚さ5.4cmのせん  中臣鎌足の墓と思われる阿武山古墳


サヌカイト 讃岐岩(さぬきがん)香川県坂出市国分台・ 二上山周辺
 非常に緻密な頑火輝石(がんかきせき 斜方輝石(しゃほうきせき

金剛砂こんごうしゃ ザクロ石を粉末にしたもの ガーネット 紫色 研磨剤


石鏃(せきぞく) 
木の葉型

陪塚(ばいちょう・ばいづか。陪冢とも記す。)中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあると考えられている。

旧石器時代
縄文時代 紀元前145から 紀元前10世紀 土器の出現、竪穴住居 貝塚

弥生時代 水田耕作 紀元前数世紀から紀元前10世紀


四天王寺
五畿七道(ごきしちどう) 律令制における行政区画



日本書紀推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」
  日本最古の官道  丹比野道(たじひ) 竹ノ内街道
 堺市  竹ノ内峠 葛城市 長尾神社 26キロ   横大路


15代応神天皇の墓 古市にある誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん、
16代仁徳天皇の墓 百舌鳥古墳群

ふたかみ山  北方 雄山 517  めやま 474  サヌカイトの産地
大津皇子おおつのみこ天武天皇(40代)大海人皇子の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女

五世紀 六世紀 家形石棺 高松塚古墳のに使われた 石 1972年発見

ゲタのぼり郷  4月23日 雨乞い神事
  嶽郷四十八ケ村 

聖徳太子 御陵 叡福寺
四天王寺
下の御堂は「隔夜堂」

「中之太子」野中寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子


  • 近世には起点を堺大道筋紀州街道)交点とした。江戸時代、沿道の竹内集落に松尾芭蕉が一時期住んでいた。現在、そこに芭蕉歌碑の綿弓塚があり、公園として整備されている。

  • 長尾街道は、日本書紀推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。
  • 奈良時代以降になると、その北側に「竜飛道」(のちの奈良街道)が整備された。河内国府(現在の土師ノ里駅付近)で本道と合流し、国分(現在の河内国分駅前)で分かれた、難波京住吉津飛鳥平城京を結ぶ重要な経路となった。
  • 河内国大和国の間の山越えルートは、明治以前は国分村六軒(柏原市国分本町7丁目付近)から現在の近鉄関屋駅二上駅の北側を通った「関屋越え」のルートであったが、明治13年(1880年)に田尻峠越えのルートが開削された。さらに近辺での付け替えにより現在の国道165号の道のりとなった。
  大阪府羽曳野市誉田(こんだ)にある全長約420メートルで,仁徳天皇陵に次ぐ日本第二位の大型古墳、応神天皇陵[誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)]。
古市古墳群の中心古墳で、西側の外濠外堤は国の史跡に指定されています

伊勢講が建てた2基の道標  中高野街道と分岐  
右 さやま 三日市 かうや  道
左 さかい  道             寛政九年  いせこう中
左 ひらの  大坂        道

右 ひらの 大坂   道
左 さやま 三日市 かうや  道
左 さかい  道             寛政九年  いせこう中


本堂  金堂
日本では一山の本尊を安置する、寺院の中心的な堂を指して「本堂」あるいは「金堂」ということが多い。「金堂」が飛鳥時代から平安時代前半にかけての古代創建の寺院で多く使われているのに対し、「本堂」は宗派にかかわらず、古代以降も含め広く使用される。ただし、奈良時代創建の寺院でも、新薬師寺西大寺のように現在は「本堂」という名称を使用している寺院もある。延暦寺など天台宗寺院では同様の建物を「根本中堂」もしくは「中堂」と呼称し、禅宗寺院においては「仏殿」と呼称することが多い。しかし、禅宗にあっても特に方丈形式の中心堂宇を指して「本堂」と称する場合も多い。
一般的に大陸より初期に渡来した系統の伽藍においては「金堂」、禅宗にあっては「仏殿」、日本的発展を遂げた寺院では「本堂」と称すると理解してよいが、上述のように明確な区別は困難である。
また、室生寺當麻寺のように「金堂」と「本堂」が別個に存在する寺院もある。室生寺(奈良県宇陀市)には平安時代前期以来の「金堂」(国宝)があるとともに、鎌倉時代末期の延慶元年(1308年)に造営された灌頂堂が「本堂」(国宝)と呼ばれている。奈良時代に建てられた當麻寺(奈良県葛城市)でも創建当初の本尊仏である弥勒菩薩を安置する仏堂を「金堂」(国宝)と称するのに対し、院政期永暦2年(1161年)に建造された、当麻曼荼羅のある曼荼羅堂を「本堂」(国宝)と呼称する。これらは、寺院創建当初の古代にあって本尊仏を祀った建物を「金堂」とし、時代の変遷のなかで信仰対象の中心がかわり、のちに当該寺院の中心的な施設となった建物を「本堂」と称して、両者を使い分けるようになったものである。

高槻市阿満宮山古墳   「青龍三年」西暦235年   京都府峰山町・弥栄町の大田南5号古墳


『 卑弥呼の鏡・三角縁神獣鏡は八枚』森田克行氏の見解です。
これによりますと、卑弥呼の鏡とする三角縁神獣鏡は『安満山古墳出土の環状乳神獣鏡』や、『 景初三年(島根県)、正始元年(兵庫県、群馬県)』の年号入りなど八枚である、としています。そして、これまでの研究では図像や文様の変化から製作時期を三~四グループに分類し、初期グループの約四十枚を卑弥呼の『百枚の一部』とする見方が出ていたが、森田氏は前期古墳の発掘が進んでいない現状では四十枚でも多すぎると考え、初期グループを詳しく検討。これらの八枚は、
  
①縁の断面が典型的な三角形でなく上端が尖ったり内側に曲がる
     

②図像や文様は他のグループに引き継がれていない 

等の観点から、これらは『三角縁神獣鏡が定型化する前の原初タイプ』で、『 魏が卑弥呼の為に製作した最初の三角縁神獣鏡群』と判断した、としています。
更に、三角縁神獣鏡ではないが、『安満山古墳』出土の『 半円方形帯神獣鏡』など四枚は原初タイプと似ている為、合わせて12枚が最初の魏鏡であると結論づけ、魏はこれらをモデルに三角縁神獣鏡を製作、モデルも加え百枚にし卑弥呼の下賜したと推測しています


0 件のコメント: