2014年6月14日土曜日

千里丘陵

千里丘陵の特徴

ニュータウンを開発した千里丘丘陵地区は大阪市の中心から約15キロのいわゆる千里丘丘陵の一帯にあたる。この地区は六甲山脈が北東に伸びた北摂の山脈から大阪平野に突出隆起している洪積台地で、東側は東海道本線、名神高速道路、西側は東豊中の丘陵地帯、北辺は国道171号線(西国街道)によって囲まれている。行政区域は東は吹田市、西は豊中市に属し、北は箕面市に接している。
千里丘陵は、地質学的には洪積層である。大阪盆地のまわりには高さ100メートルくらいの丘陵地帯が散在し、これらを大阪層群と呼んでいる。
大阪層群は比較的凝固度の低い花こう岩質の荒い砂ないし中粒の砂、砂れき、淡青色の粘土、などからなり、薄い凝灰岩層を数枚はさんでおり、その基盤は花こう岩である。また大阪層群は第3紀鮮新世末(注 ~170万年前)から第4紀(注 170万年前~)にかけてできたと考えられ、その後数回にわたり氷河期における海退と陸化、山地の上昇運動、さらにその侵食、準平原化が繰り返されて、現在千里丘丘陵に見られるようなもろい砂れきと粘土の混じった低く平らな丘陵地帯となった。
千里丘陵の最高地点は西北の尾根にあり、高さは約130メートルである。しかし大部分は50メートルから70メートルの丘陵で、その間に複雑に入り組んだ谷間がある。丘陵部は松、竹、果樹などの林におおわれ、低い部分と緩やかな斜面は田畑として開発された。西部には天竺川が上新田、熊野田の集落を経て東部を流れ、神崎川に合している。その南の高川の流域には下新田の集落がある。千里丘陵北部の蓮間ケ池を起点とする山田川が丘陵の東を貫通し、その流域に沿って南北に細長い山田集落がある。山田川の南には正雀川があり、山田川とともに安威川に注いでいる。これらの河川によって丘陵は大きく分けられ、その流域が帯状平野を形成している。また、この地域は雨の少ない地帯に属するため、丘陵全域にわたってため池が散在している。
               (「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)

千里丘陵の歴史

千里丘陵にいつごろから人間が住みついたかは、はっきりしない。丘陵の周辺部には歴史的遺跡が比較的多いが、内部の地質が砂れきないしは粘土で、風化によって浸食されやすいため肥料分に乏しく、また雨の少ない地域であるため、人の居住した形跡が認められない。丘陵の間にため池を作って農業を営み始めたのは、江戸時代からではないかと考えられる。
ただ、山田や佐井寺などの良質の水がわくところでは古くから集落が発展したようである。また丘陵の南部にある旧垂水村の地域においては、古くから豊富なわき水があり、垂水(たるみ)のような地名が生まれた。垂水神社、泉殿神社等があったことは、このようなわき水や泉のかたわらに集落があったことを物語っている。
文献によると、古代に吹田地方に住んだと思われる氏族に難波吉師部(きしべ)があり、今日の吹田市岸部が、その住地であったと推察できる。吉師部の祖は古事記によると神功皇后の新羅征伐帰還後、謀反した忍熊王(おしくまのおおぎみ)が難波吉師部の祖、伊佐比宿称(いさひのすくね)を将軍とし、神功皇后とその皇太子方の将軍丸邇(わに)の臣の祖難波波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)と戦った話がある。
垂水神社(式内)は古代では一流の大社で、境内のわき水はかんばつでもかれなかったので崇拝されたと考えられる。またそのわき水を取り囲んで集落が形成されたことが想像される。万葉集に垂水を歌ったものがあり、とくに巻7の摂津作歌二十一首の中につぎの句がある。
「命を幸(さき)く吉(よ)けむと石(いわ)ばしる垂水の水を結びて飲みつ」
とあるのは摂津の地名を読み込んだ歌であるから、あるいはこの垂水の地の泉のことをさしているのではないかと思われる。
延喜式にある古社として有名なのは嶋下群に鎮座する伊射奈岐神社二座である。この社の一座は大字山田小川の西南の中腹にあり、伊装諾命をまつり、一座は字佐井寺にあるもので、今は春日と称しているものであると考えられる。社伝には雄略23年伊勢皇大神宮の斎宮倭姫命(やまとのひめのみこと)の命により、その臣豊足彦と称するものが五柱の皇太神を奉祀すべき霊地を諸国にもとめ、この地にまつり、山田の原と称したという。これは伊勢の国山田の原の名を移したという説である。山田とは山間の田というところが地名になった場合が多いので、一概に伊勢の山田の名を移したという説には従いがたい。伊射奈岐命・伊射奈美命男女2神が偉大な生産の神であることから農民の間で深く信仰されたということが考えられる。
また、この地方の古寺として早くから文献にあらわれているものに佐為寺がある。弘仁5年(西暦814年)2月および同7年2月に嵯峨天皇が遊猟の折り、佐為寺および百済寺の優民に綿を施し、交野から帰京したとある。(類聚国史32、幸32天皇遊猟)この佐為寺が今日の佐井寺の前進ではないかと推定される。荘園制時代の山田垂水地方が荘園文書にあらわれてくることは「皇極紀」や「類聚国史」にでている。
室町時代の当地方のことを物語る資料は、豊中市南郷の今西春定氏所蔵文書で、それに山田荘山田村からの年貢の記録がある。また「更級日記」(11世紀後半に菅原孝標の娘・橘俊通の妻がしるした)に山田地方のことを記した次の文章がある。
「さるべきよう有りて秋ごろ和泉に下るに、淀というよりして道の程のおかしう哀なる事いひつくすべうもあらず。高浜というところにとどまりたる夜、いと暗きに、夜いたう更けて、舟の楫の音きこゆ。問うなれば遊びのきたるなりけり。人々興じて舟にさしつけさしたり。遠き火の光に、ひとへの袖ながやかに、扇さし隠して歌うたひたる。いと哀れに見ゆ」
吹田荘の南部を高浜と称した。遊びとは遊女である。淀川河口に当たる当時の吹田地方は舟の仮泊所で、遊女なども江口、神崎あたりから訪れたものらしい。
(注)朝日新聞社発行の古典全書によると、高浜は大阪府三島郡本町の淀川の岸にあったとしている。
今日では千里山とは吹田市北方の丘陵地帯の一部をさすが、もとは、もっと西北方豊中市桜井谷芝原の待兼山、刀根山、北豊島の玉阪、熊野田から上新田にかけてのあたりをさしたものであるいう。一名遠寝(とね)山といい、古来景色がよいところというので、待兼山、たまさか山、島熊山、寝山が歌にうたわれている。待兼山、たまさか山は現在では千里から西北の地であるが、今日の千里山あたりをふくんでいる。
清少納言の「枕草子」に「山は待兼山、たまさか」とあるように平安時代から知られており、当時の重要な交通路、太宰府道が待兼山の北部を通過している。そのやや東方の萱野は西国への旅行者の宿泊地であった。
近世になって、明応5年(西暦1496年)蓮如上人が大阪生玉在石寺に本願寺を創建し、のち天文元年(西暦1532年)孫証如は、この別院を本山に定めた。大阪の地はその門前町として栄えたが豊臣秀吉はこの地の重要性に着目し、天正11年(西暦1583年)大坂城を大阪に築いた。千里地方はその後背地の一部となり、大阪の繁栄と関係するところ大であったと想像できる。
その当時山田千里地方の集落は山田上村、山田中村、山田小川村、小川村枝郷別所村、山田佐井寺村、片山村があった。また元和から寛永にかけて山田の新田村である山田上新田村、山田下新田村が誕生した。これらの諸村は元和元年(西暦1615年)から徳川氏代官の支配地であったが、寛永2年(西暦1625年)板倉周防守重宗の領地となり、寛文9年(西暦1669年)4月から淀藩主石川主殿頭憲之の領となり、続いて正徳元年(西暦1711年)5月同じく淀城主松平丹波守光熈の領地に転じ、享保3年(西暦1718年)同じ淀藩主松平左近将監乗邑に移り、享保8年5月同じく淀藩主稲葉丹波守正知の領地となり、同氏が世襲し美濃の守正邦にいたって明治2年(西暦1869年)6月上納した。
明治4年7月に淀県に属し、同11月大阪府の管轄となった。記録によると、これらの村々の石高が非常に増大していることは、近世中期以降に千里山丘陵の開発が盛んであったことを示している。
明治の初期山田千里山地方の生産を示すものとしては、明治14年内務省が編集した「群村誌」や明治13年「上新田農事調」同14年の「下新田農事調」などがあり、これらの農事調には米、糯、大豆、大角豆、小豆、綿、裸麦、豌豆、喬豆、春筍、夏桃、蕨、大根、菜種、薪柴、甘藷、茄子、胡瓜、越瓜、夏柿、葱、水菜、蕪、4月菜、蕃椒等の作物がしるされている。
               (「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)

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