2015年9月19日土曜日

豊中の地名

千成

◎墓地の上の道路
かつて、千成町2丁目あたりには、菰江墓地がありました。昭和46年、神崎刀根山線の用地となったため、墓地は市内の別の場所と尼崎市に移転されましたが、現在、その跡には碑が建てられています。

◎まちの名前の由来は
千成町を含む庄内地域を治めていた弓大将の大島光義が豊臣秀吉の家臣であったところから、秀吉ゆかりの千成びょうたんにちなんで千成町となっています。

萱野三平のお墓が2つ!?
 光國寺(庄本町1丁目)、新福寺(二葉町2丁目) 神崎川沿いにある 下水処理場の屋上を 利用した神崎川公 園。ちびっこ広場や 芝生広場、キャンプ 用の敷地があり、市 民の憩いの場となっ ています。 赤穂浪士の一員として有名な萱野三平。校区内には そのお墓が2つあります。一つは光國寺で、三平の姉 が同寺の住職に嫁いだ縁によるものです。もう一つは 新福寺で、萱野家が江戸時代にこの地域を治めていた 大嶋家の家臣であったことから、大嶋家の菩ぼ 提 だい 寺 じ であ る同寺にも置かれています。

◎手塚治虫のキャラクターが一堂に
昭和63年(1988)10月、手塚さんが第三中学校(栗ヶ丘町)を訪れた際、1枚の色紙に絵を描き生徒たちにプレゼントしました。この銅版パネルはその色紙をもとに作ったもの。すこやかプラザ(岡上の町)の2階に展示されています。

桜塚の地名の由来
3 桜塚碑(中桜塚2丁目)
商店街の一角、能勢街道沿いに立つこの石碑には、桜塚は豊島郡の古い村名で、48の古墳があったことや、その桜塚の名を長く伝えたいとの地元の人たちの思いが記されています。もちろん、桜塚の名は今も健在です。

戦争も震災も乗り
越えた「桜」の透かし
4 府立桜塚高校のレンガ塀(中桜塚4丁目)
この塀は昭和13年(1938)に設立された府立豊中高等女学校当時のものです。「国の登録文化財と知ってびっくり。母校の歴史を後輩にも伝えたいと思います」と、生徒保健委員会の皆さん。体育祭や文化祭のときには周囲の清掃をします。

放送局が?
5 大曽公園(北桜塚4丁目)
公園の中央にある小高くなった藤棚のそばに「大阪中央放送局」と刻まれた古い石柱があります。ここに放送局があったのではなく、「ラジオ塔」と呼ばれるラジオ電波受信設備があったといわれています。


小曽根小学校、
 ここに始まる
1 西福寺(小曽根1丁目)
明治7年(1874)~9年に小曽根小学校の校舎としても利用されたこの寺には、江戸時代の有名な画家・伊藤若冲が描いた仙人掌群鶏図のふすま絵が残されています。国の重要文化財に指定され普段は見ることができませんが、毎年11月3日に虫干ししている様子を見学することができます。

川の平穏を願って
5 経塚(浜1丁目)
天竺川の堤防近くにある経塚。天竺川の洪水から人びとを守ることを祈願して、天保13年(1842)に浜在住の学者が石に書いた経典を埋めたと伝わっています。天竺川と高川は昔から氾濫が多く、そのたびに堤防を高くしていったため、周囲の土地より川底の方が高い天井川になっています。

◎松と大クモの伝説
昔むかしに犬ほどの大きなクモが天竺川まで届く巣を張り、鳥や村人を食べていたという伝説が残っています。このクモが糸を掛けた松を「大くもの松」と呼んでいたとのことですが、昭和9年(1934)の室戸台風で倒れてしまったそうです。

レトロなれんがの側溝を探してみよう!
雨水を下水道へと流す側溝は現在、コンクリート製。ところが、岡町北、岡町南から曽根西町一帯には、れんが作りの側溝が残っています。その場所を結んでみると、大正時代に岡町住宅という名前で住宅開発が行われた地域と一致しました。道路脇のれんがからもまちの歴史が分かります。

100年前から、まちの人たちは集っていた!?
1 豊中クラブ自治会館(玉井町1丁目)
木造二階建ての建物は、住宅開発の際に集会場として建てられ、築90年を超えた今も文化教室などに使われています。ちなみに箕面駅前にあった日本で初めてのコーヒー店を移築したものともいわれています。

◎赤橋、青橋、白橋
猪名川を渡るため、地域の人によく利用される利倉橋、新南園橋、南園歩道橋。これらの橋は、地域の人から色によって「赤橋」「青橋」「白橋」との通称で親しまれていて、昔から人や車の行き来を支えています。


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