2013年11月7日木曜日


「門戸岡田町の道標」 手前の道が門戸厄神への参道

正面に見えているこの面「☜面」は
西宮・西国から来てこの面と出会う。
この面は少し削られているということもあり、右面の「すぐ」とも合致しないのでこの面のことは考慮に入れず、他の2面が正しいとした場合次のことが考えられる。
 


より大きな地図で 門戸岡田町の道標 を表示
 
この2つの面の指示する場所が存在するか! ということを検証しました。 
2面は「是より」と「すぐ」の面です。
『すぐ 京都 伊丹 池田道 左は参詣近道
  西宮から来た人が見たら、すぐ 京都、  左 参詣近道 
  方向としては間違っていない。現在の場所で90度向きを変えても正解です。
  ポイント右端に立っていてもこの表示はまちがっていない、
  
  山門は南向きに立っているものと考えられる。よって、表参道に当たる、
  現在所に移したものと思われる。
 
次の面が問題だ
『是より門前まで西へ五丁 中山荒神 三田 有馬道』 
    問題は この場所であれば上記下線部分の説明がつかないことです。
 1.門前まで西へとなっているので、現在の場所では北へとなるはずである。
  この道標は厄神明王社の東側に立っていたことになる。 
 
 2.中山荒神、三田 有馬道 の道がここにはない。その道はずーと東に行き
     中山荒神へのルートがある道と出会う場所がこの道標の旧在所となる。
             中山荒神 665-0836 兵庫県宝塚市清荒神1丁目17−10
さて、西国街道を横切る、そのような古道があったか現在のところ分からな
     いが、
     このあたりで、有馬道とは どの道をさすのでしょうか?
     その道を南北の道があり、北上すると仁川の競馬場になる。
     古道のことは不明であるが、中山荒神 三田 有馬道を説明には
   十分納得いく。
 3.最後に 西へ五丁の距離を測ると
     これは、厄神明より 東側に立っていたことになる。      
   上の地図の目印は 左上が「門戸厄神社」左下が現在所 
   真中のポイントで七〇〇メートル 
   右端のポイントで九〇〇メートルとなる。
   少し遠いが 山門がもう少し手前にあったと考えれば納得いくし、
   寺に来てもらうために、わざと短い距離を書いてあるのかもしれない。

『すぐ 京都 伊丹 池田道』の反対面は、文久二年に削られ書き加えられたかもしれない。またこの面には『すぐ 西宮』と記載するのが本来あるべき姿である。記載内容も一考する点でもある。それがこの面に設立者の名前が記載されています。
 道標に名前の記載はおおいほうではないが、記載するとしても目立たない面、隠れた面、使用しない面に記載するのが普通です。たとえば下記の『下大市東町の道標』はその典型的な道標の一つです。 もしこの面に記載するとしたら 道しるべとして大事な『すぐ 西宮』とすべきところですが、それが抜けているとはまったく不思議な道標だとおもわれます。
 この道標は西宮では有名な道標で堂々とした立派な立石ですのでそれだけ大きなミステリーとなるのでしょうか! 長年この道標の表示について「おかしい」などの問題になっていなかったらしい。ここに立っているのが当たり前 というのも面白いではないですか。ミステリーです。
 『すぐ 西宮』の面を『文久二壬戌冬再建』とこの3人が書き換えた可能性が高くなってきました。道標として利用したのではなく、『☜日本三躰 厄神明王社』の案内としてこの道標・石を使ったことになる。
 道標が後で書き換えられたことは非常に残念である。
 先人たちの作った道標、庶民の文化遺産を破壊、廃棄 または勝手に書き換えるなどもってのほかだと思う。そのことは現代に生きる私たちも、今後、先人たちの遺産を後世に正しく伝えていかなければならないし、それが現代に生きる我々の義務でもある。
道標に詳しい人 一度チャレンジしてみてください。      

 結 論 以上の推論から・2面の表示を解釈した結果 「門戸岡田町の道標」は住所は分からないが、上の地図の右側のポイントに立っていたものと考えられる。 このようなことは、一度詳しく検討・討議し、その結果を説明板・資料等には
記載が間違っている。」ことは掲示すべきであると思います。

最後に 正面の「☜日本三躰 厄神明王社」は「☜」が新しくかきかえられている形跡があるあるので、旧在所であれば ☞となります。この道標を山門前に移動したため、合わせるため ☜にかえたのではないでしょうか! その結果 現在のようなちぐはぐな道標になっている。       
      


 道路拡張や地震・火災などで分からなくなってしまう道標が多数ありますが、また逆に道標が拾われて、再度 建てられたとしてもあります。その時方向を間違って立てるとは考えにくいし、また、立てたとしても今回の例のように他の面の表示と辻褄があいません。再建の場合は、史実に忠実にするのが当たり前で、検討したうえで位置、方向を再現することです。
 その上で疑問の点は掲示板等を使い、後世に科学の進歩を期待し、疑問をゆだねることも必要です。

 最初に道標は立てようとする場所を想定し、表示もその場所でしか通用しない表示になります。今回のように、移動されているとされる道標もその表示で道標が何処に立っていたかを確定することができます。それでないと道標ではないからとも言えます。
 
 庶民が利用する道標ですから「ここではこうだ! あの道標はではこうだ!」という理屈は要りません、行き先の地名と方向をきちんと伝えて初めて道標が本来の役割を果たします。

「下大市東町の道標」

   正面 左尼崎大阪道
   左面 右厄神明王道

   右面 すぐ高木今津道

 全ての表示が正しいとしたら、  左右を間違えたとは考えにくいし、
 右 厄神明王道 は 西国街道に出たら 西国街道を西進しなけれがならない。
 「すぐ」南下し高木村を過ぎても、南に行っても 今津道とはならないので、これは明らかに「すぐ」の間違いでしょうと考えた方がよいのではないでしょうか。

 もう一つは ここで「この道のこと」を「高木今津道」と考えると辻褄が合うようだ。 
  この道標も なんとも 理屈に合わない道標ですね!


以前の調査
「門戸岡町」と「昆陽寺山門前」の道標 確認

移動されたもので、旧在所が確定した事例は
1.新高公園の道標は   中島大水道をわたる、東西の橋の袂にあった
2.江坂の道標 は 旧在所 福知山市上天津の道標   
3.上新田墓地の道標は 上新田西口の道標
4.江坂西西道標 は 下新田の失われた「下の立石」?
   
    



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