2013年10月12日土曜日

関の地蔵にまつわる話

俗に「関の地蔵に振り袖着せて奈良の大仏婿にとろ」
と唄われた美男の地蔵菩薩である。
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地蔵菩薩は釈迦が亡くなられたのち五十六億七千万年
の後に弥勒菩薩が出現する間。地獄、飢餓、畜生、阿修羅、人、天の六道に輪廻してさまよう私たちを救うという菩薩である。
髪がない剃髪、袈裟を身にした僧形(男)の立像、または坐像
か半伽像が特徴である。
俗謡に
 「関の地蔵に振り袖着せて奈良の大仏婿にとろ」
 関のお地蔵様に振袖を着せれば女よりも美しい。そして奈良
の大仏を婿にとってみたいものだ。

 これが美男を賛美する唄の本来の意味である。
中には関の地蔵は男か女か?と真面目に議論する人もいるだ
ろうが、いちど関の地蔵のお顔とお姿をじっくり拝観してほしい。
まさしく男、それも日本一の美男のお地蔵様と納得されるであろう。




*****  一休和尚と関の地蔵の麻の布
むかし、京の都の名高い一休和尚(いっきゅうおしょう)が東海道を旅しとったんやそうや。
 そのころ、関(せき)の宿場(しゅくば)に地蔵(じぞう)さんが立っとったんやけど、往来のちりによごれて見苦しなってしもたもんで、里の者らが集まってきれいに洗(あら)い清(きよ)めたんやて。ついでに破れとったお堂も直して、お坊(ぼう)さんが通りかかったら、開眼供養(かいげんくよう)をしてもらおうと待ちかまえとったんやに。そこへたまたま通りかかったのが、一休和尚やったんさ。
 里の者はさっそく、
「旅の坊さん、地蔵さんの開眼供養をしてもらえんかいな」
とたのむと、一休和尚は、
「ああ、よかろう」
と心やすく引き受けてくれた。そやけど、地蔵さんに向かって経(きょう)を読むでもなく、
「釈迦(しゃか)はすぎ、弥勒(みろく)はいまだ出(い)でぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」
と妙(みょう)な歌をよんでな。そのうえ、衣のすそをまくって立小便して去ってしもたんやに。

 あっという間のできごとやったんで、里の者らはポカンとしとったんやけど、われに返るとかんかんに怒(おこ)ってな。
「とんでもないインチキ坊主(ぼうず)にたのんでしもたわ」
「あんなうすぎたない坊主にたのんだのがまちがいやった」
「もういっぺん開眼供養をやり直そや」
ということで、ちがうお坊さんにあらためてたのんだんやて。
 今度のお坊さんは、身なりもりっぱでな。九条のけさを身にまとい、高座に上って鉦(かね)を打ちならしたり、水晶(すいしょう)の数珠(じゅず)をおしもんだりしながら、むずかしいお経を長いことよんでくれてな。そしておごそかに、
「ここにお集まりの善男善女(ぜんなんぜんにょ)は、功徳(くどく)により病苦(びょうく)をまぬがれ、田畑(でんばた)は穂(ほ)に穂が重なり、天災地変(てんさいちへん)も火難水難(かなんすいなん)も無縁(むえん)となろう。ましてこの関の地蔵のご本尊(ほんぞん)は将軍地蔵(しょうぐんじぞう)じゃから、たとえ大敵や強盗(ごうとう)が現(あら)われても、家のなかまで押(お)し入ることは金輪際(こんりんざい)ない」
と、回向(えこう)の鉦を鳴らしながら告げてな、ありがたさに涙(なみだ)をこぼさん者はおらんだん。感激(かんげき)した一同が心をこめてお坊さんをもてなしたんは、いうまでもないことや。
 ところがその晩(ばん)、在所の者に地蔵さんがとりついてな、高熱を出し、うわ言のように、「せっかく名僧(めいそう)の供養によって目を開いたのに、どうしてつまらぬ供養のやり直しなどして迷わすのか。元のようにして返せ」
と口走ってな。これを聞いた者はたまげたのなんの。さっそく主だった者が集まって相談し、一休和尚を追いかけて呼(よ)び戻(もど)そうということになったんさ。
 使いの者らが、やっと桑名の宿で追いつくことができ、かようかようしかじかと、地蔵がのりうつった様子を伝えると、一休和尚は、
「いまさら関まで引き返すことはできんゆえ、この下帯を持ち帰って地蔵さんの首にかけ、わたしが唱えた歌を三べん唱えるように」
と教えたんやて。使いの者は半信半疑(はんしんはんぎ)で和尚の下帯を持ち帰り、言われたとおりにすると、あっという間にのりうつった人の熱は引いて、もとの元気な姿(すがた)に戻ったんやて。関の地蔵さんが今も麻(あさ)の布きれを首にまいとるのは、こんな由来があったんやに。

*********** 関の地蔵と「しむか地蔵」豊中
地蔵堂の前の道を伊勢に向かった。
その長い道中で、あの名高い「関の地蔵」さんによく似ているとみえて、
「関のお地蔵と、しむかの地蔵は、いとこづくか、似てござる。」と唄われるようになった。
 

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