故郷の代わりとなった 道標
見つけた道標 本庄の渡し Ⅱ 追加 跨線橋 川口村の道標追加掲載 ******************
川口村の道標 すごい
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「勝尾寺への道標」 先日、「歴史散歩の記録」さんから教えてもらった道標を探しに
結果を先に、東中島の道標を頼りに淀川まで歩いたら、この道標に会えた。
もう少し、突っ込みが足りなかったようだ。
では、阪急西中島南方駅から
今日のスタートはここから
電車から見えるこの道チョットおかしい、
車の幅の宅地の後、右側は大きな道路になるので気になっていた。
東側の踏切を南にわたる。
大きな道路では T字路 そして、建物の東側にまた細い道がある。
道路をわたり、阪急側の見ると、間隔が狭い間に道がある。
一筋中にいると並行しての道路、蔵があり、なるほどなるほど
一筋西側で淀川へ出ました。
目的の祠です。
祠の東側の道
正面は (馬頭観音像)右 かち 下部欠損
左面は 左 中山
右面 記銘なし
裏面は指で探したが、文字らしいものは感じれてなかった。
これは またまた、確証になります。
一つは 十三の道標C、Dと、 新高公園の道標、
天満の夕願寺の道標 東中島の道標
この道標が本庄の渡しで中心となり繋がりました。
すごいですね!
「北部大阪市内の道標一覧」 をまとめました。
さて、本庄の渡しがあった、川口村は淀川の河川工事でなくなりましたが、
この付近の人たちは、その川口村からここに移り住んだ人たちで作られました。
この道標は、その時この地に持ちこんだものです。よく持ってこられたと思います。
他の地区では、無残に忘れられ、放置されている道標ですが、
川口村の人は道標を「村の思い」として、自分たちと一緒に新しい村に来たものと考えられます。
感激しました。 よくぞ残っていた。
観音様は何時も淀川を見守っています。
向きとしては、九十度右に回すと 渡しを渡って来て
左 中山 右(すぐ) 勝尾寺になり、 右は本庄街道で東中島の道標で横関街道に合流する。
では、東中島へのルートをたどることにします。
淀川通で分断されていますが 道の向こうに続きの道が見えます。
今度は阪急京都線 ここでも分断されていますが、その向こうに道が続きます。
そして、線路を渡る歩道橋があります。
2012/04/12 追加
この橋の名は 昭和47年5月31日
「西中島一、三跨線人道橋」でした。
線路を跨 道があったのを電車が通るので踏切か
「跨線人道橋」を作ったのだと思います。
阪急北千里線の踏切、跨線橋 を参照
もう一つ確かめないといけないものがあります。
横関街道がJR東海道線を「跨ぐ橋」の名前が必要です。
「江坂を通る 横関街道 地名「横関」???」
南方の駅方面
南方は専門学校の多いところです。
その向こうに、JRの横に地蔵がありました。
JRの東には徳蔵寺
楠正成首塚があります。
寺の中にはこのような碑が
ここを線路沿いに北上すると一辻を右に曲がると祠が
東中島の道標 指で確認しましたが、銘は正面だけのようです。
これで 西中島からの道標と点と点が結び付けられます。合致します
川口村は水没したので、そこいらには道標がないとかってに思っていたのが
非常に残念です。悔しいといったほうが当たっている。
もう少し、足を延ばしたら分かったはずなのに!
正徳寺
見事な立地蔵3体 背光が変わっています。
これは、北側にある「宮原墓地」
全体に黒い、浄土真宗系統です。
今日は ここまで
2 件のコメント:
こんばんは
本来街道筋にあった道標が諸事情によって移動を余儀なくさせられ場合、街道沿いを見るだけでは見つからなくなるので、探すのは容易ではありませんね。
ご苦労様でした。
いつも有難うございます。
私がもう少し突っ込みがあれば分かったはずです。 突っ込みの無いのが悔やまれます。
しかし、勝尾寺への道標があったことは私の資料としては、いやいや これはルートが限定、決められるような重要な道標です。
大変です。私感動しました。あるはずもない道標が出現してのですから!
感動です。前日 話は聞きましたが、実際に行って見ると、泣けるぐらい感動しました。(実際は泣いていましたが)
すごい道標が見つかりました。
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