2014年7月19日土曜日

上新田

みなさん、上新田にある天神社を知っていますか?この地域の氏神様として、お正月に訪れ
る人も多いかと思います。毎日この横を通って通学している人もいるでしょう。
私はこの5月5日にこの天神社の春祭りの神事に参加しました。
その他、10月10日の秋祭りと1月1日の歳旦祭、そして1月14日のとんど祭りなど、
行事のたびに上新田天神社に伺っています。
先日は、そこで天神社に伝わる古い絵をみせていただきました。
そこには1686年、上新田と書いてありました。天神社は豊中市の指定文化財になってい
ますが、随分古い歴史があるのだなあと思い、上新田の歴史を調べてみることにしました。
皆さんが住む上新田が新田村として誕生したのは、江戸時代、3代将軍家光の頃だそうです。
嘉永3年、1626年、今から386年前です。山田下村の吉田五郎右衛門、田中安右衛門、
吉田権兵衛という3人が世話役となって上新田80石、下新田40石、合わせて120石の
村高で開発を請け負い、山田村から分かれた上新田、下新田の新しい村が生まれました。
そして、開墾がすすんで耕作地が増えると、分家にあたる人達が独立して、寛永12年
1635年には27戸だった家が、230年後、幕末の慶応元年 1865年には130戸
にもなっています。また、石高も当初の80石が明治5年には605石にも増えました。
もともと新田村で人々が生活を始めたのは、千里丘陵の谷間をせき止めて池を造り、そこか
らの用水が利用できるようになってからです。千里丘陵は川から遠く、ため池が水源でした。
今も残る「樫の木池」や千里体育館のところの「安場池」などが江戸時代初期につくられま
した。上新田集落の人々は苦労して池をつくり、その水を「垣内(かいと)」という組織で
みんなが使えるようにしました。集落は協同作業などを通して終結し、社会組織の連合体を
築き、行政機関を有する新田村として大きく発展していきました。
実は上新田は昭和28年1953年に豊中市に編入されるまで、豊能地区ではなく三島地区
に属していました。
新田小学校は明治6年、1873年に今の吹田市立千里第一小学校の分校として開校しまし
た。昭和28年豊中市に編入され、豊中市立新田小学校になったのです。創立139年の
小学校です。
上新田の中央を通る道は、古くは大阪方面からの箕面にある勝尾寺までの参道でした。
明治のころには新千里南町3丁目を天竺川ぞいに北東にすすみ、旧新田小学校前を左折して
上新田村に入り、参拝客はちょうどその辺で休憩ということで、上新田には茶屋や参拝客専
用の宿があったそうです。
当時をしのばせる町石や道標が今でも上新田1丁目や2丁目のあたりに残っています。
見たことありませんか?1丁目7番の馬頭観音像や2丁目4番の三叉路の「右いばらき、左
かちおし」ときざまれた道標はすぐにみつけることができます。
この道を右に行くと、いばらき、宇野辺から高槻街道へとつづき、京都へいくよ、左に行く
と勝尾寺だよ、という道しるべです。
また旧新田小学校と新田幼稚園のあいだの道をまっすぐいく三国街道は上新田でとれた農
作物やたけのこをつんだ荷車や牛舎が大阪へとむかった道です。
その後、長くつづいた農村社会は千里ニュータウンの開発で激変します。
上新田は土地の買収などがうまくいかなかったため、千里ニュータウンからはずれることに
なりますが、昭和51年のシーアイマンション、昭和54年の朝日プラザやパークヒルズ
など、豊中のマンション建設の先駆けの地となりました。
この地区の人口も増え、昭和59年、豊中で一番新しい小学校、新田南小学校もできました。
竹やぶや田んぼを切り開き、マンション建設の波はまだ続いています。
天神社のとんどで使う「わら」を供給できる家はたった1軒だけになってしまいました。
また天神社の裏の竹やぶは見事にとりくずされ、宅地造成が今まさに、おこなわれています。
歴史ある天神社を守るための住民運動もおこっていますが、宅地造成をとめることはできま
せんでした。
みなさんにとってのふるさと、上新田はこんな歴史のある地域です。
みなさんが過ごす今の上新田の風景が、そのまま皆さんの思い出のふるさとになります。
自分の住む街に愛着をもって過ごし、この街でよい思い出をたくさんつくりたいものです。


上新田西公園(上新田1丁目)
上新田会館が昭和 47年(1972)
に建てられた際に、役目を終えた
公会堂が取り壊され、跡地は公園
として整備されました。公園の一
角には、公会堂の門柱とカイヅカ
イブキが残されています。


↓眞覚寺の境内には、「蓮如上人安座石」もありました。



「頭をまるめ、灰色の着物を長身にまとった美しい方だった ・ ・ ・ 」
 この徳林院の建立は、およそ200年前になる。
 その当時、箕面の勝尾寺に「徳本さん」という徳の高い聖がいた。
     「聖は時々、大阪御堂筋の小橋屋といふ呉服大店主の請により勝尾
     寺より大阪に至る途中、上新田の徳林院に御足を休めさせられ~(徳
     林院縁起より)」
 その、徳林院の初代庵主は小橋屋の美しい娘さんで、庵も小橋屋の当主が
 建てたものらしい。 その後、養女を迎え二代~三代と尼僧物語は続いた。
 ところで、私の手元には出所がはっきりしない一枚の紙片がある。
     浄土宗知恩院末。本尊は阿弥陀如来。
     もとは京都市東山区の総本山知恩院の膝下にあったが、大正3(1914)
     年に村の有力者により現在地に移転する。徳林院が移転する前の同
     地には常光庵があった。常光庵は延宝元年(1673)に小畠与右衛門の
     娘・清順がはじめて庵地を開いたことにより成る。
     徳林院の入り口には天保(1830~1843)の年号の入った碑があり、そこ
     には「徳本行者遺跡」と刻まれている。
  "縁起" によると、徳本聖が攝津在住期(1801~1814)に徳林院は上新田にあっ
 たことになるが、移転説をとれば聖が立ち寄ったのは常光庵になる。
 しかも、冒頭の「頭をまるめ、灰色の着物を長身にまとった美しい方」の記事は
 昭和41年5月号の新聞「千里」に掲載された今井信子さんの取材記で、三代
 目庵主の高橋智称さんを紹介したものである。取材当時45~46才の庵主が、
 ここの養女に入ったのが12才のときだというから昭和10(1935)年ころになる。
 だとすれば二代目庵主さんの時代に、なにかがあって知恩院系の徳林院を向
 かえたことになるが原因はわからない。(尼寺だけに楽しく物語を作ってみ
 たいが)
 縁起は、徳林院として成立後に作られているので常光庵の名を端折っている
 のではなかろうか。小橋屋さんが、建てたという庵も朽ちた常光庵に手を加
 えたもので名をそのまま使用し二代目庵主さんのとき庵号を変更したとも考
 えられる。

 徳林院は上新田の(旧)勝尾寺街道から奥に入ったところにある。
 狭い参道のすぐ先に急角度の階段があって、上りつめたところに小さな館が
 ある。 本堂右奥の蓮台の上に定印を組む徳本聖の坐像をお祀りし、境内に
 は聖の書を刻んだ六字名号碑(蔦文字といわれる独特の南無阿弥陀仏)が
 ある。



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