今回の十三から天六までの歩きは
すでに何回も見ている資料を再度、見てみると「勝尾寺」 「のせ」の銘のある道標が
すでに何回も見ている資料を再度、見てみると
大阪市内に2基ありました。2基ともお寺 その確認の為に十三~天六まで歩きました。
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2012/01/19 修正追加 大阪市内の道標
「勝尾寺への道標」
2. 旧山口村の道標 探索宮原の道標と同じ
3. 旧川口村の道標
4. 新高公園の道標 調査結果
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冷雲寺(冷雲院)北区野崎町 6312-1541
本寺は、戦時中で梅田あたり一帯が焼け野原になりましたが、冷雲寺と天神さんは焼けずに残った建物で、この建物も 江戸時代のもので釘を一本も使用していないとのことでした。
正面 右 堂島淀やは一□心堂 左 天満天神 八けんや
裏面 すぐ十三神崎伊丹中山 すぐ番所ば つくた 池田 のせ 道
右面 南無阿弥陀仏 俗名
左面 明治四□年 世話人
夕願寺(せきがんじ法華宗陣門流護国山)北区野崎町 6312-0828
正面 右 本庄 服部天神 池田 能せ
左 十三 神崎 中山 尼崎 西宮
左面 右 天満 八軒家 京 伊勢
右面 嘉永二(1849)酉(とり)3月建立 施主〈せしゅ〉
能勢への道は江戸時代の嘉永年間までは
能勢は、本庄の渡しを使いと書かれている。
現在の能勢街道の十三とは方向が違う。ということが夕願寺道標でわかる。
現在の能勢街道の十三とは方向が違う。ということが夕願寺道標でわかる。
冷雲寺の明治の道標では 能勢は十三と同じ方向を示している。
中国道の途中中津から「新橋」を使うルートが能勢街道になった。
街道も時代とともに変わります。
これ道は 明治の地図で確認することができました。
昔からの道です。中国道にあたるとおもいます。
「昔の町名が残る。」
もう1点は、西寺町、東寺町があったということです。
これ道は 明治の地図で確認することができました。
昔からの道です。中国道にあたるとおもいます。
「昔の町名が残る。」
もう1点は、西寺町、東寺町があったということです。
大阪市 東寺町
地図にはありません。まだ新しい案内板で「東寺町々会員表」とありました。
「寺町通」は残っています。
「寺町通」は残っています。
与力町、同心 なども残っています。大阪城の名残でしょう。
冷雲院(西寺町)で聞いたことで、西寺町、東寺町は地図上ではありません。
それにしてもお寺が多い
大阪市の広報に名所旧跡がありましたのでそちらをご覧下さい。
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