2009年6月27日土曜日
2009年6月26日金曜日
茨木市 わがまち茨木 道標編・街道編
他のサイトから学ぶ 2015/05/10 更新
茨木市のあるサイト 「茨木市小学生の社会科」
元茨木川の樋跡と橋跡(もといばらきかわ) から見つけました。
樋跡と橋跡 多いですね!記念碑が立っているのがいい。
今調べている 碑 それにしても、式内社4社を持つ茨木市は多いですね!
わがまち茨木 道標編
買い求めました、
北摂では一番新しい物です。
平成19年3月発行 500円
発行 茨木市・茨木氏教育委員会
いいなと思ったのは 道標の統計が作られていました。
行き先の集計?
いつの時代の作か?
設立者の分析
など 道標からの時代背景資料になります。
「これもあります。」と出されたのが 「わがまち茨木 街道編」でした。
茨木市のあるサイト 「茨木市小学生の社会科」
元茨木川の樋跡と橋跡(もといばらきかわ) から見つけました。
樋跡と橋跡 多いですね!記念碑が立っているのがいい。
今調べている 碑 それにしても、式内社4社を持つ茨木市は多いですね!
わがまち茨木 道標編
買い求めました、
北摂では一番新しい物です。
平成19年3月発行 500円
発行 茨木市・茨木氏教育委員会
いいなと思ったのは 道標の統計が作られていました。
行き先の集計?
いつの時代の作か?
設立者の分析
など 道標からの時代背景資料になります。
「これもあります。」と出されたのが 「わがまち茨木 街道編」でした。
2009年6月24日水曜日
古い地図 垂水・江坂
2009年6月23日火曜日
不思議な地蔵
この地蔵さんの頭がえぐれているのは?
左の2基の地蔵の頭がえぐれています。 疑問が・・調査の最初の一歩
この地域、粘土質で石が多くありません、石を別な利用としたのではないでしょうか!・・・・間違いと傘をかぶって大変古いものだと訂正されました。
何かを支えるために地蔵の頭をえぐり支えにしたのではないでしょうか?
別項で考察 「仏像の溝」
地蔵の溝 壊れた唐臼の支持台の再利用であると考えるのが一般的である。
「たしかに頭がえぐれている!」 そんなものを地蔵にできるわけがない。
そうなると 「地蔵が先で溝は後で出来たもの」となる。
左の2基の地蔵の頭がえぐれています。 疑問が・・調査の最初の一歩
この地域、粘土質で石が多くありません、石を別な利用としたのではないでしょうか!・・・・間違いと傘をかぶって大変古いものだと訂正されました。
何かを支えるために地蔵の頭をえぐり支えにしたのではないでしょうか?
別項で考察 「仏像の溝」
山田探索で案内の方が「何故?地蔵に溝が?」
地蔵の溝 壊れた唐臼の支持台の再利用であると考えるのが一般的である。
これが調査の一歩
9月17日 「この地蔵、頭がえぐれているよ!」 うちの奥さん 「野の仏」の「じろう」をみて、
「えー そんなこと 馬鹿な!」 と考えるのが普通「たしかに頭がえぐれている!」 そんなものを地蔵にできるわけがない。
そうなると 「地蔵が先で溝は後で出来たもの」となる。
考えを変えなければ、「そんなバカなことが」 「罰当たりだ!」
時々 いいヒントを与えてくれます。
2009年6月22日月曜日
2009年6月19日金曜日
京への道 6 片山町 吹田街道・亀岡街道の間道
豊津から「吹田の渡し」経由と片山を通るルートで検索してみます。
このルートは吹田街道と大阪高槻京都線との合流点「吹田渡」から
高浜神社に行き天道に至るのでは遠回りになると考えています。
明治19年の地図には天道から片山村を通るルートがあるので豊津から近道として利用したのでないでしょうか。
吹田の渡しから亀岡街道で天道に向かいいます。区画整理、JRによって現在はその道はとぎれ存在しませんし、また吹田の渡しから片山村への道も道標からも地図からもあったようです。 ちず丸距離計測で試みましたが、実測できませんでした。が現在の地図上からも近道があったと考えるのが一般的ではないでしょうか!
片山の道標 でないか
左 大阪 と読めるのではないでしょうか!
これは 寺の住職に車よけといわれました。
この道標は 70歳代の家の人に子供の時からあった といわれました。
右 亀岡 左 佐井寺 だと思います。
もう一つは 2個の地蔵さんがあります。 立派な祠です
賀田山町2東交差点の近くです。 片山3丁目2
下の祠は 浄念寺の北側の通りを西に20メートルにあります。
中には 6期の地蔵がまつられていました。
今回 山田から青葉丘北、下穂積、松ケ本町で大阪高槻京都線を渡り、JRをくぐり、下中条町で宇野辺から来た高槻街道と合流するルートと市場池経由とが存在します。
道標で言うと山田地区では1基だけ存在しますので、山田三辻の道標でそこには行き先「京」又は「いばらぎ」は見あたりません。ので、判断に困りますが、私が山田から京に向かうだったら、近道の山田街道を使います。 または博物館で保管されている道標「樫切山道標」が物語るのでしょうか!「京」は出てきませんが、西面「すぐ 茨木、富田」とありますので、このルートを使ったのではないでしょうか!
何せ資料がない。
山田の昔話では、伊勢参りの迎えに大津まで出かけたそうです。その際のルートはわからないのでしょうか!
このルートは吹田街道と大阪高槻京都線との合流点「吹田渡」から
高浜神社に行き天道に至るのでは遠回りになると考えています。
明治19年の地図には天道から片山村を通るルートがあるので豊津から近道として利用したのでないでしょうか。
吹田の渡しから亀岡街道で天道に向かいいます。区画整理、JRによって現在はその道はとぎれ存在しませんし、また吹田の渡しから片山村への道も道標からも地図からもあったようです。 ちず丸距離計測で試みましたが、実測できませんでした。が現在の地図上からも近道があったと考えるのが一般的ではないでしょうか!
片山の道標 でないか
左 大阪 と読めるのではないでしょうか!
これは 寺の住職に車よけといわれました。
この道標は 70歳代の家の人に子供の時からあった といわれました。
右 亀岡 左 佐井寺 だと思います。
もう一つは 2個の地蔵さんがあります。 立派な祠です
賀田山町2東交差点の近くです。 片山3丁目2
下の祠は 浄念寺の北側の通りを西に20メートルにあります。
中には 6期の地蔵がまつられていました。
今回 山田から青葉丘北、下穂積、松ケ本町で大阪高槻京都線を渡り、JRをくぐり、下中条町で宇野辺から来た高槻街道と合流するルートと市場池経由とが存在します。
道標で言うと山田地区では1基だけ存在しますので、山田三辻の道標でそこには行き先「京」又は「いばらぎ」は見あたりません。ので、判断に困りますが、私が山田から京に向かうだったら、近道の山田街道を使います。 または博物館で保管されている道標「樫切山道標」が物語るのでしょうか!「京」は出てきませんが、西面「すぐ 茨木、富田」とありますので、このルートを使ったのではないでしょうか!
何せ資料がない。
山田の昔話では、伊勢参りの迎えに大津まで出かけたそうです。その際のルートはわからないのでしょうか!
出口道標 上新田 地図
上新田の道標
上新田村から東西南北出口にある道標・地図
より大きな地図で 上新田の道標 を表示
見つけた道標(赤の目印)
三国街道と熊野田道との分岐
「旧上新田小学校の道標」=「上新田西口道標」
「見つけた道標」
http://space.geocities.jp/fkyws889/framepage3.html
上新田の道標 東西南北
1.東口道標
2.西口道標
3.南口道標
4.北口道標
「道標は道の辻辻にあった。」
上新田村から東西南北出口にある道標・地図
より大きな地図で 上新田の道標 を表示
見つけた道標(赤の目印)
三国街道と熊野田道との分岐
「旧上新田小学校の道標」=「上新田西口道標」
「見つけた道標」
http://space.geocities.jp/fkyws889/framepage3.html
上新田の道標 東西南北
1.東口道標
2.西口道標
3.南口道標
4.北口道標
「道標は道の辻辻にあった。」
2009年6月17日水曜日
「山田の歴史」 Ⅱ
おでかけイベント 吹田市博物館
吹田探索 山田村のまち歩きとトーク「山田の歴史」2
昼食後 竹田純立氏による「山田村」講演
午後の探索 伊射奈岐神社
本殿
紫雲寺 本堂天井
山田の地蔵群
「地蔵の溝」 これから始まる
案内者が云われた「地蔵に何故溝があるのか!」
簡単なことだ「唐臼」が壊れ 再利用・リサイクルです。
一般的だと思います。 資料を見ていると
『地蔵の頭で溝がある!』
信仰の始まりは 「万物に霊が宿る」
だから、昭和の生まれの人は
「地蔵・石物におしっこしたら ちんちんが腫れる!」と言われ
地蔵に後から溝を掘ってよいのでしょうか!
吹田探索 山田村のまち歩きとトーク「山田の歴史」2
昼食後 竹田純立氏による「山田村」講演
午後の探索 伊射奈岐神社
本殿
紫雲寺 本堂天井
山田の地蔵群
「地蔵の溝」 これから始まる
案内者が云われた「地蔵に何故溝があるのか!」
簡単なことだ「唐臼」が壊れ 再利用・リサイクルです。
一般的だと思います。 資料を見ていると
『地蔵の頭で溝がある!』
信仰の始まりは 「万物に霊が宿る」
だから、昭和の生まれの人は
「地蔵・石物におしっこしたら ちんちんが腫れる!」と言われ
地蔵に後から溝を掘ってよいのでしょうか!
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