2013年6月29日土曜日

東淀川区の歴史 下記がヒットしました。


東淀川区の歴史と地理に関する本のリスト

タイトルをクリックすると、書誌詳細情報が別画面で表示されます。
東淀川図書館所蔵の資料と他の大阪市立図書館所蔵の資料に分けて掲載します。
全部で 50 件あります。

以下は東淀川図書館で所蔵している東淀川区の歴史と地理に関する本のリストです。ご活用ください。
No. タイトル 著者 出版社・出版年 書誌ID
1 摂州西成郡江口村村方記録(大阪市史史料 第64輯) 渡辺 忠司/編  大阪市史料調査会
2004.7
0010797561
2 東淀川の歴史と美術 -大阪経済大学七〇周年記念事業ギャラリー開 大阪経済大学/編集  大阪経済大学
2002.9
0010567258
3 ひがしよどがわ区の暮らしの歴史を語る   大阪市東淀川区役所総務課
1995.3
0010778691
4 東淀川区史 -現淀川区・東淀川区- [川端 直正/編集]  市民日報社
1987.4
0010814912
5 東淀川区史 川端 直正/編集  東淀川区創設三十周年記念事業委員会
1956.6
0000253623
6 井高野のあゆみ 井高野霊園記念誌委員会/編集  井高野霊園記念誌委員会
1983
0000646067
7 崇禅寺遺跡発掘調査概要 -大阪市東淀川区所在- 1   大阪府教育委員会
1982.3
0080179232
8 西成郡史 -全- 西成郡役所/編  名著出版
1972
0000246505
9 伸びゆく東淀川区 -東淀川区創設40周年記念- 川端 直正/編  東淀川区創設40周年記念事業委員会
1965
0080257513
10 大阪ぶらりある区 6 此花区・西淀川区・淀川区・東淀川区 大阪商工会議所中小企業相談所/編  大阪商工会議所中小企業相談所
1989
0080211470
11 淀川(趣味の京阪叢書 第11輯) 北尾 鐐之助/著  京阪電気鉄道
1943.1
0000253640
12 淀川往来 上方史蹟散策の会/編  向陽書房
1984.10
0000243032
13 たずねてみませんか名所・旧跡 -OSAKA東淀川- 東淀川区役所/編集  東淀川区役所
1995.3
0010864207
14 東淀川歴史探訪 -名所・旧跡を訪ねるまち歩き- 三善 貞司/[編]  大阪市東淀川区役所区民企画室企画振興係
2005.3
0010998590
15 東淀川区の史跡と伝承 [三善 貞司/述]  東淀川区コミュニティ協会
1999.3
0000754542
16 ぶら~り東淀川百選ウォークガイドブック -東淀川区周年記念- 大阪市東淀川区役所区民企画室/編集  [大阪市東淀川区役所区民企画室]
2004.11
0010868807
17 淀川三区稗史 -わが町・宝さが誌- 三善 貞司/著  [三善貞司]
1978
0080196670
18 淀川流域の伝承 -淀川区の歴史と文化を学ぶ- 三善 貞司/[著]編  大阪市淀川区役所
2004.7
0010805369
19 いきいきふれあい東淀川区まちづくりレポート 大阪市東淀川区役所企画総務課/編集  大阪市東淀川区役所企画総務課
2001.3
0010155995
20 子どもたちに夢を与えるまちをめざして -東淀川区未来わがまちビ 東淀川区未来わがまち会議/編集  東淀川区未来わがまち会議
2006.3
0011221607
21 [三宝寺振興町会]50周年記念誌 三宝寺振興町会/[編]  三宝寺振興町会
1988
0080259731
22 分区10周年記念東淀川 大阪都市協会/編集  東淀川区分区10周年記念事業委員会
1985
0000412535
23 わが町東淀川 東淀川区政協力会/編集  東淀川区政協力会
1979.7
0010864208
24 わたしたちの町   大阪市立豊新小学校
[1993]
0000485821
25 こんなにあった東淀川区の橋 大阪市東淀川区役所企画総務課広聴企画係/  大阪市東淀川区役所企画総務課広聴企画係
1998.3
0050091438
26 かんざきがわ   大阪市立下新庄小学校
2000.2
0010839618
27 東淀川区の宅地造成事業 -座談会- 大阪市都市整備協会/編  大阪市都市整備局
1987.3
0000342366
28 拓けゆくわが町 -宅地造成土地区画整理事業- 豊里西地区 大阪市都市整備協会/編  大阪市都市整備局
1987.3
0000342361
29 拓けゆくわが町 -宅地造成土地区画整理事業(下新庄地区)- 大阪市都市整備協会/編集  大阪市都市再開発局
1981
0000698767
30 拓けゆくわが町 -宅地造成土地区画整理事業- 豊里地区 大阪市都市整備協会/編集  大阪市都市整備局
1985.3
0000322937
31 東淀川東部第1地区土地区画整理事業誌 大阪市都市建設技術協会/編集  大阪市建設局東淀川東部土地区画整理事務所
2005.3
0010998611
32 東淀川農協のあゆみ 大阪市東淀川農業協同組合事務所建設記念事  大阪市東淀川農業協同組合
1964
0000378101
33 百姓普請の中島大水道 -東淀川農業協同組合創立二十五周年記念事 大阪市東淀川農業協同組合二十五周年記念事  大阪市東淀川農業協同組合
1974.5
0000382251
34 [東淀川区商店会連盟]四十年のあゆみ 東淀川区商店会連盟/[編]  東淀川区商店会連盟
[1986]
0080257667
35 雑誌巻号] あまから手帖 1992年3月 / 8巻4号 市場あるき大阪・阪   あまから手帖社
1992.03
5110857855

以下は他の大阪市立図書館(主に中央図書館)が所蔵している東淀川区の歴史と地理に関する本のリストです。お取り寄せできるものもあります。閲覧については係員にご相談ください。
No. タイトル 著者 出版社・出版年 書誌ID
36 崇禅寺遺跡 -府営崇禅寺鉄筋住宅建て替えに伴う埋蔵文化財発掘調 大阪府教育委員会/編集  大阪府教育委員会
2003.3
0010716715
37 大阪市東淀川区崇禅寺遺跡発掘調査報告 1(市営住宅建設工事に伴   大阪市文化財協会
1999.10
0000801858
38 ひがしよどがわ -東淀川区創設70周年記念- 大阪都市協会/編集協力  東淀川区創設70周年記念事業委員会
1995.4
0010450706
39 私が選んだ東淀川100選 市制100周年記念事業東淀川区委員会/編  市制100周年記念事業東淀川区委員会
1989.10
0080205092
40 江口の里と君堂 田中 脩/編  江口の里史蹟保存委員会
1976
0080259040
41 [非図書] つながるひろがる西淀川~淀川~東淀川3区's Ma   大阪商工会議所新淀川支部
2006.3
0011418071
42 「歴史散歩」の記録 -シリーズわがまち- 稲垣 泰平/著  文芸社
2008.4
0011607787
43 まわってみよう日之出 -日之出地区ガイドマップ-   日之出地区教育相談室
1996.9はじ
0000693372
44 大阪市東淀川区々政要覧 昭和16年 大阪市東淀川区役所/[編]  大阪市東淀川区役所
1941
0080194586
45 [大阪市]東淀川区の十年誌 大阪市東淀川区役所/編  大阪市東淀川区役所
1935
0080194906
46 [大阪市]東淀川区区政統計表 昭和39年度 [大阪市]東淀川区役所/[編]  大阪市東淀川区役所
[1964]
0080194585
47 東淀川区の福祉 第1集 東淀川区地域別福祉問題地図 東淀川区社会福祉協議会/編集  [東淀川区社会福祉協議会]
1962はしが
0000579859
48 ひがしよどがわく子ども新聞 [2006] 大阪市東淀川区役所区民企画室/編集  大阪市東淀川区役所区民企画室
2006.3
0011176830
49 ひがしよどがわく子ども新聞 [2007] 大阪市東淀川区役所区民企画室/編集  大阪市東淀川区役所区民企画室
2007.3
0011421895

2013年6月26日水曜日

パワースポットが「天神の馬場」④ 産経新聞 

産経新聞 6月12日(水) 木戸記者
隔週水曜日掲載 次回 ご期待 
 
新聞記者   魅惑の道標を拝見する。 2013年5月9日木曜日  本番
新聞報道  吹田郷土史研究会   2013年5月18日土曜日  新聞記事
新聞記者から電話 取材か!  2013年5月24日金曜日 

2013年6月4日火曜日  高槻に「お台場」があった 

道標について 説明

道標は、街道の交差点や分岐点などに建てられ、通過する旅人たちに目的地への方向や里程を示し道案内するものです。当初は木製のものも建てられていたようですが、現存するのは当然ながら石造のものばかりです。これらは現在では、裏道となった旧街道にひっそりと残っていたりしますが、通行の妨げになったり、都市計画により他の場所へ移設されたものもあります。また、道標が文化財に指定される例も少なく、その保存環境は年々厳しくなっています。今のうちにできるだけ多くの道標の写真を残しておきたいものです。

1、街道と道標

● 道路の制度が初めて定められたのは大宝三年(703)で、日本を58の国と3つの島に分け、各地の国府と大和地方の都を結ぶ道路が開通しました。これが、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道です。中でも大和地方と太宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部は最も重要な道路として全国唯一大路に指定されていました(古代山陽道)。大路の山陽道には 三十里(約16㌔)ごとに駅家(うまや)が置かれ、駅馬二、三十匹、駅子百二、三十人が常駐していました。駅家は築地で囲まれ、駅門があり、倉庫などの建物が並んでいたといわれます。播磨では明石、邑美(明石)、賀古(加古川)、佐突(姫路)、草上(姫路)、大市(姫路)、布勢(たつの)、高田(上郡)、野磨(上郡)にあったとされています。

● その後、瀬戸内航行の海路が整備され駅制は次第に崩れます。鎌倉時代には京都と鎌倉を結ぶ東海道が主要道路となって、山陽道の重要度は薄れていきます。また商業の発達に伴い「市」や「宿」が発生し、それらを結ぶ物資運搬路が通じ、この地方でも丹波道などの幹線道路が開通しています。このころ街道筋から分れる大寺院などへの参道に「丁石」と呼ばれる道しるべが現れます。

● 江戸時代の慶長六年には江戸を中心に五街道が定められ、慶長九年には日本橋を起点として全国に一里塚の制度が設けられました。このとき山陽道は脇往還となりましたが、依然として重要な道筋でした。

 貨幣経済の発達した元禄時代以降、街道には旅人が急増します。まず庶民層の商人たちが、つづいて各地の神社仏閣へ講を組んで参詣する人々が、そして入湯や遊山の旅人などの通行が多くなって、街道筋の宿場には木賃宿や旅籠屋などが現れ、また宿場間にも立場や茶店などの休息所がみられるようになってきます。このころ街道の追分や重要な分岐点などにその行き先や里程を示した木製角柱の道しるべが増し始め、やがては自然石や切石の道しるべが建立されるようになりました。この石造の道しるべが今日旧街道で見られる道標です。これらの建立は官製のものはなく、ほとんどが庶民の寄贈によるものです。余裕ある商人などからの寄贈のほか、親や旅の途中で亡くなった人の供養、西国三十三所巡礼の成就の記念など建立の動機は様々です。そうした道標の一面には施主、願主、発起人、世話人などとしてその下に個人名や団体名が記入されているものが多く見られます。(参考資料:神戸新聞社「神戸の道標」など)



歌川広重、東海道五十三次に描かれた道標

● 戸塚宿の東海道と鎌倉道の分岐に建てられた道標で「左り かまくら道」と書かれ、これは現在も近くの妙秀寺に保存されているとのこと。(写真をクリックすると拡大できます)


2、道標の見方

● 道標の一番上はほとんどの場合進む方向や方角を示しています。東西南北のほか「すぐ」
 「春ぐ」「直」(いずれもまっすぐの意)、「右」「左」「中」「此方」や指差し手形。矢印などで方向を示し
 ています。 また、「従是北・・・」などと文字で表示されている場合もあります。

 その下は目的地が書かれています。目的地は場所名のほかに有名な神社仏閣や観光名所な
 どがあります。寺院の場合はほとんどが山号のみで案内されています。書写山(圓教寺)、牛堂山
 (国分寺)、刀田山(鶴林寺)、法華山(一乗寺)などです。また、当時の漢字の使用方法は統一され
 ておらず、判読するのは困難を伴います。例えば「飛免ぢ(姫路)」「者り満(播磨)」「楚祢能末川
 (曽根の松)」などと書かれています。目的地の一番下は多くの場合「道」の文字がくずして書か
 れています。また、あて字については、「播磨名所巡覧図絵、巻之二」の 「播磨国」の冒頭に次
 のような記述がありました。当時の漢字の使い方をよく表しています。「播磨、針間(以下略)さま

 ざまに書けども皆仔細なし、音訓(よみこえ)のあたるべき文字を以っていかようとも書くは、日本の
 古風也」と。

 「是ヨリ一里」などのように現在地から目的地までの里程が書かれている場合もありま
 す。姫路市青山の道標には「長崎へ百六十九里二十七丁、下ノ関へ百六里」などと遠方まで
 の距離が詳しく書かれています。

  一般的には、一里は三十六丁(一丁=六十間)と定められていましたが、比較的平坦な街道
 では七十二丁の場合もあったようです。人が一刻に歩ける距離が基準になっていたようで
 す。萩藩の絵師が作成した中国行程記で、姫路市四郷町の一里塚の記述をみると「此一里山
 ハ、播磨姫路より一里、三十六丁道、摂津西ノ宮より十八里、丁数不同」などと書かれ、一
 里の丁数が一定でないことを示しています。

 道標建立の年月日が書かれている場合もあります。「時 寛政十二年歳次庚申」(高砂市
 荒井神社東の道標)のように元号と干支は一組で表記されるのが一般的です。元号がなく「壬
 辰三年(天保三年?)」という例もありました。また、月の表記では、姫路市飾磨区下野田の
 道標に、陰暦の12月を「臘月」(としのすえつき)と珍しいものもありました。日は特定日
 ではなく、吉日、吉祥日とするのが通例のようです。

 道標の建立者の名前などとともに、道標を建立した主旨が漢文や和歌(浜芦屋の道標)で
 書かれたものもありました。また、親や旅の途中で亡くなった人を供養するための道標や霊
 場巡拝成就の記念の道標もあります。こうした道標の多くには一番上に地蔵や観音像などが
 彫られています。このような仏像がある道標は、今日ではお堂や祠におさめられたりして地域
 のお守りとして大切に崇められています。

 道標の形は、尖頭型(角柱の頭が四角推)、打切型(角柱の頭が平)、櫛型(角柱の頭が半
 円)、板碑型、舟形光背型、台石型、自然石型があります。 また、角柱型のほとんどは四角柱です
 が、なかには五角柱(姫路市青山、たつの市追分、たつの市新宮町)の道標も見られました。


3、道標に似た石造物、「境界石」「丁石」「道路元標」
● 「境界石」は、藩の境界などに建てられ「従是西備前国」(兵庫、岡山県境船坂峠)、「従是東備前國」(岡山市北区吉備津)や「従是西尼崎領/他領入組」(西宮市岡太神社境内)などと表記されています。また、室町時代には大寺院の勢力圏を示す「守護不入」(書写山圓教寺)、「従是西八幡宮御神領守護不入之所」(京都府大山崎町離宮八幡宮)などと書かれた大きな石柱もありました。
● 「丁石」は道標より歴史は古く、大きな寺院などの参道で主要な街道筋から一定の距離ごとに設置されていました。「自是山上惣門迠三十六町」(箕面市勝尾寺口の鳥居下)などと書かれていました。
● 「道路元標」は大正八年に施行された道路法施行令に基づいて各市町村に一基づつ設置された道路標識の一種です。標記は「的形村道路元標」など「道路元標」の文字の上に各市町村名が書かれています。県単位では「里程元標」(神戸市元町や大阪市中央区高麗橋東詰)もあります。道路元標の形状は大正十一年の内務省令で地上の高さ60㌢、一辺が25㌢の角柱と定められていました。兵庫県下の設置場所は大正九年の兵庫県告示で決められています。現在の道路法ではこれら元標は何の規定もないので道路の付属物とされ、年々その数は減っているそうです。(写真をクリックすると拡大できます)


=見学先候補100選 例=

=見学先候補100選 例=

http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-mori/kenngaku100.htm
   <A 博物館 >
交通科学博物館
琵琶湖博物館
国立民族学博物館
ふれあい考古館
大阪歴史博物館
大阪府立近つ飛鳥博物館
大阪府立弥生文化博物館
大阪歴史博物館
奈良国立博物館
京都府立文化博物館
神戸海洋博物館
水の科学博物館
下水道科学館
銅鐸博物館
神戸市立博物館
 <E 企業会社 >
大阪ガス科学館
関電南港発電所
シャープ技術ホール
阪急電鉄正雀工場
大津板紙(ダンボール)
西陣帯の織成舘
八幡光雲堂吹き戻しの里
太秦映画村
松下電池工業
積水ハウス住宅研究所
京セラファインセラミック館
日本銀行神戸支店
コクヨ大阪工場
日本ペイント大阪工場
ダイハツ工業池田
ライオン大阪工場 

  <B 公共施設 >
大阪市中央卸売市場本場
大阪市環境事業局舞洲工場
千里リサイクルプラザ
大阪府立水産試験場
阿倍野防災センター
日本一の名城姫路城
大阪城天守閣
大阪市立環境学習センター
私のしごと館
盲導犬総合訓練センター
関西国際空港
水道記念館水の散歩道
大阪科学技術館
造幣局大阪本局
陸上自衛隊信太山駐屯地
大滝ダムダム
<F 食品関係 >
お香の薫寿堂
白洋含京都工場
グリコピァ神戸
ヤクルト京都工場
おやつカンバニー久居工場
キューピー伊丹工場
アサヒ飲料明石工場
アサヒビール吹田工場
サントリー山崎蒸溜所
チョーヤ伊賀上野工場(梅酒)
灘小西酒造
サントリー高砂工場(ウーロン茶)
雪印乳業業関西チーズ工場
キッコーマン高砂工場
土丼志ば漬本舗
ヤマサかまぼこ
ミルクコミュニティ京都工場
福寿園CHA研究センター
三輸そうめん山本麺ゆう館
河内ワイン
港館ワインミュージアム

<C 公共機関 >
国立印刷局彦根工場
造幣局大阪本局
京都府警察広報センター
兵庫県庁
資源リサイクルセンター
地球館環境学習センター
大阪市消費者センター
大阪府警ミュニティプラザ

  <D 報道機関 >
関西テレビ放送 
朝日新聞大阪本社
NHK大阪放送局
毎日新聞社
読売テレビ放送
 <G その他 >
堺刃物ミュージアム
橋の科学館(舞子)
赤穂市立海洋科学館塩の国
古代友禅美術館
日本民家集落博物館
京都府立茶業研究所
ラーメン発明記念館
宝塚市立手塚治虫記念館
ATCエイジレスセンター
栗東トレーニングセンター
長浜黒壁スクエア館
梅小路蒸気機関車庫
ワッハ上方
大阪くらしの今昔館
墨の資料館がんこ
平野・町ぐるみ博物館
なにわの海の時空間

調査 項目

福島聖天了徳院  すぐ あまがさき  にしのみや

 環状線福島駅 西へ 福島聖天通商店街 あみだ池筋を越す

2013年6月24日月曜日

竹之内街道 新しい発見が


今日は日本最古の官道 竹之内街道
古市の石川右岸にある「川向道標」
右側の道標は堺の有名な「神南辺隆光」安政6年1859年

杜本神社

竹之内街道の街道筋
上ノ太子「叡福寺」多宝塔 重要文化財
三太子は 下之太子=大聖勝軍寺 「中之太子」=野中寺 そして、「上ノ太子」=叡福寺で
近鉄「上ノ太子」は駅名である。

南大門から聖徳太子御廟

聖徳太子御廟 古墳である。

境内に道標2基  

 

松井塚古墳石棺  叡福寺境内に1基あったのですが、これでしたかね!

尼ケ谷古墳

聖徳太子の墓
聖徳太子の墓 竹之内街道資料館

今日はイベントが開かれている。
 この地の一部は、吉田平太郎が所有、 道の駅があったのが撤去されている。
さて、竹之内街道資料館へ


 竹之内街道の道標で一番古い 太子町大道の道標・地蔵立像
元文4年(1739) ミぎ 大坂 さかい ミち







神南辺隆光

2013年6月23日日曜日

珍しい「カンムラ」の姓

宮崎県綾町には「カンムラ」の姓はうちの家だけです。
おじいちゃんが鹿児島県加治木から綾に住んだようです。そのいきさつはわかりません。
おじいちゃんは、苦労し、洋裁で身を立て、金物屋とか貸倉庫などを行っていました。
私が小学校のころは、既に隠居し、小田爪の湯之谷で湯治場を行っていました。
今は私の別荘に、その湯元、井戸を貰い受け、家を建てました。
 さて、話を戻しますと鹿児島出身ですので、近くには親戚はいません。
ところが、ある店で、宮崎県串間市には、たくさんの「カンムラ」の姓があると聞き
住所を聞きに出かけました。 串間市市木古都(ふると)でした。
 

より大きな地図で 串本市へのルート 姓 カンムラを求めて を表示 

 
聞き取り様子は こちら

電話帳で調べました。 「カンムラ」の姓
鹿児島県  20. 上村  1,885    215  鹿児島県では大半がカミムラ。
宮崎県    92. 上村     537    215   宮崎県でも大半がカミムラ。 
  このような結果でした。  全国215位

小田爪の湯之谷で湯治場はこちら
2011年9月20日火曜日  湯之谷 私の別荘 宮崎県綾町
自分探し「ルーツの旅」  皆さんもやりませんか自分のルーツ

 

2013年6月22日土曜日

やっと実をつける  オリーブ 

今まで何本か買いました。
太子では2メートルまで育ち、花は咲くが実をつけないオリーブ
今年は 2粒のオリーブです。  以上 6/14日

大きくなりました。 少し萎れていると思われたが、順調に育っています。

6/22撮影
去年花をつけましたが、実が付かず

2013年6月19日水曜日

これは  幼いツバメ 箕面山荘で 投稿






眼下に見える北摂 向こうに見えるのが生駒 今日は貴女会(機女会)久しぶりの会です。
長いこと続いています。
さて、ベランダのヘリをよく観察してください。今年生まれたツバメか
5羽います。

2013年6月17日月曜日

2013年6月15日土曜日

小浜宿 首地蔵

 

私の今日のポイントはここ

「蝉しぐれ小浜の渓谷いわし坂」  まちづくり協議会 イイですね手製です。


この道を通って小浜宿へ さて疑問
国府橋の西側に道標が立っているとは、上の道を使っていなかったのでしょうか
また、馬などを使った荷物の運搬にはこの道では狭すぎることも

********************************************  以前に撮ったもの
2009-07-12-1322-40 

国府橋を渡った右手に

有馬から来た人のため
右 大坂
左 のみち
この道標 大阪の坂の字が明治以前の字体
石の風格からして明治以降の物とは言い難い。
**************************************
道標2基  その①
和田家の庭にあるこの道標  小浜東口の東に立っていたもの。  

弘化3年  1848年 幕末だ20年後は明治元年 

その②
(梵字) 右 ■■■  わかりません!メスりましたね!!。
(売布神社への途中にある。)
  *********************************************

14番の道標は北口の道標でしょうか



小浜の首地蔵   もう一基が


 
以前の探索 
2009年8月27日木曜日 たからづかの道標  

2012年1月10日火曜日  福を求めて 今年二度目の中山観音、清荒神

2009年9月1日火曜日  兵庫県最古の道標

2009年9月1日火曜日  小濱宿その他の道標

2008年8月26日火曜日 最古の道標

2010年2月17日水曜日 会談 池田郷土史学会

 
 

 

 




 

2013年6月13日木曜日

変貌する町並み 残してほしかった熊野田の里山

破壊された!千里丘陵 元の姿に戻るのか!
千里丘陵を開発して開催された万博
40年経ったがその昔、兔が跳ねる森りに戻ったのか!
破壊されたものは、元には戻らない!
開発のための!、そこには、自然は残らない!
私のお気に入りの里山、熊野田 
右側を見ると おおきく変貌しています。

宅地造成が行われていました。
奥の右側のマンションのまだ右側、山の裏に大きなマンション建設中
そこから、巨大な上町断層が現れました。
おおきく変貌

以前の千里の里山
佐井寺への道 上新田ルート 2009/12/14
201/09/稲がありません  
熊野田の上町断層