2011年2月24日木曜日

「上の立石」の銘  記載の間違い・・??? 追加


「豊中市の文化財 道標編」 p37に NO。30

(南) かちをうし
(西) 南無阿弥陀仏
(北) 
(東) 為万人講衆中法界
写真はない。
これら消失した道標4基については、
「昭和38年の豊中市史編纂当時、市内道標の一部を調査し、これを地図上にメモしたものが残っている。」で紹介されている。
 それによると
30.樫の木池北東、勝尾寺と野道との三又路
     新千里北町2丁目
   住所から「上の立石」のことが書かれている。

さて記載について別な資料 本「野の仏」大阪読売新聞には。
 この道標は江戸時代のものであろうと記されているが
上記の(西)、(東)面の記載はない。下の写真でご確認ください。

これが、「上の立石」を「野の仏」が紹介している写真です。
彫が深い、南面には「(馬頭観音像)右かちをじ」 東面には 文字らしくものはない。
大きいので立石と言われ、道標編30で記載されているのはまちがいと考えられる。


道標編30の項は一部間違って書かれている。
(西) 南無阿弥陀仏
(東) 為万人講衆中法界
これ項は面は違うが、私が見つけた「新田西口道標=旧新田小学校北東道標」に記載されているものとほぼ同じである。 行先の方向は 左・右の表示がなく、この道は 「かつおじへの道」を指している。 

新田西口道標 の記載 下部欠損
 (東) 左大坂
 (南) 南無阿(弥陀仏)
 (西) 為万人(講衆中法界)
 (北) 右くま(のだ)
とあるので、面が違うが、こちらの銘を間違って記載されたものと思われる。
箕面市に同じ人(万人講)が立てたものが2基あり
それらから補足すると
(南) 南無阿弥陀仏
(西) 為万人講衆中法界 願主岸◇ となる。 
 後の二面は 左・右の行先を表示 
 
箕面市の2基は 勝尾寺から大阪へ帰る道沿いに立っている。=大阪道
 万人講①は 勝尾寺表参道の 2町石と3町石の間に立っていたもので
   右側に分かれ道があり5歩ほど歩くと左側に立っている。
万人講②は、西国街道を西に取り、今宮で大阪と別れるところの立っている。
万人講③は、上新田「西口道標」 =「新田小学校北東道標」   
 西口道標で 右に取ると 熊野田から豊中へ
 左に取ると 高川から小曽根・横関街道にて、大阪へ
  
万人講④  吹田で見つかった 「万人講道標」
    江坂 素盞嗚神社  油掛け地蔵横の石物郡 
    旧在 三国街道と横関街道三叉路か 三国街道を少し行ったあたりに建てられた物  
      と考えられる。
 表記
 「かち(をうし)
 「為万人(講衆中法界)
 「南無阿(弥陀仏)」  下部欠損 これが本「豊中の文化財 道標編」30番の記載されている。
  万人講道標は 勝尾寺から大阪への帰路案内で 要所要所に建立
  ところが、この道標はだけは かつおじだけを標記し 出発点を表示している。
4基の「万人講」    その2
*******************************************

0 件のコメント:

コメントを投稿