2009年7月25日土曜日

広報とよなか

豊中市郷土史家森本吉道










広報とよなか2002年5月

2009年7月23日木曜日

道標見本のまち・上新田の拓本

秋の展示を前に 拓本 アンコールワット拓本協会  
向こうに見えるのは 千里中央  「道標見本のまち・上新田」 






上新田墓地で見つけた道標 

 
左の道標は 寛文年間で有名 池田伏尾台の道標
右側の道標は うつぎ谷の道標も見つけました。

 2009年9月4日 ~ 12月7日  箕面市立郷土資料館
     「箕面から大坂への 道 標 展

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2009年9月29日火曜日  『箕面から大坂への道しるべ展』 Ⅱ

                 見つけられた「道標17基」

2010年2月19日金曜日  「見本のまち」 上新田の見どころ

 
 

上新田の郷土史家

上新田 西島修蔵
上新田字名(豊中市)
西嶋さんからヒントを得て
古い地図から上新田地域の「道」を作成作成しました。
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西嶋修三氏 講演会Ⅰ,Ⅱ




2009年7月18日土曜日

吹田郷土史研究会

7月例会 第264回 7月17日(金) メイシアター集会室
司会者 米津茂 さん  いい声で進行
会長  佐々木 進 さん あいさつ
演題1 「千里丘付近に見られる地名の起源」
講師 吹田郷土史研究会副会長 竹田純立
講演2 山田の古墳と新芦屋古墳
講師 吹田市立博物館 藤原 学
会費 700円(会員は500円)
参加者 約50名  盛会でした。
司会者

会長

竹田純立氏

この地図が気に入りました。

私が知らない道標が1点、写真を撮っていない道標が1点 これは良かった。

新芦屋古墳は635年に木室を持つ古墳の話
あまり興味はありませんでしたが
発見当時のことを話されました。発見が早かったら国宝になっていたであろう。
2~3回このあたりを散策されているようでしたが、「ここ掘れ ワンワン」とはならなかったようです。

最後に市民会館に飾ってあった物「吹田の渡」

会場には気づいたのは2名の「吹田まち案内人」主催のハイキングで一緒になった方が居られました。
お礼を言ってかえりました。

2009年7月17日金曜日

疑問の道標 Ⅱ


天竺川に街道があったか無かったか!

1.長興寺村絵図(長興寺村文書)
には道は書いてありません。

2.明治10年長興寺村全図(長興寺村文書)が次です。
3.豊中市市史(通史一) 享保18年の御用場諸事入用帳(長興寺村文書)に
見分ルートにある、「船着場」・「道路」の修理が記載されています。
 火薬の運搬は高川が利用されていたようですが、高川は「寺内村」の
領分ですので、運搬には天竺川を利用したのではないでしょうか!

4.摂津国豊嶋郡小曽根郷絵図文化8年(1811)

庄本町の森本先生に聞きましたが私とは別の考えでした。
森本先生は、街道に詳しい方です。
 2002年5月広報とよなかで
【特集】とよなか歴史の道散策  を書かれています。

2009年7月16日木曜日

疑問の道標

「疑問の道標」

天竺川を遡る熊野田道(勝尾寺街道)から考察

地図「摂津国豊嶋郡小曽根郷絵図」
      文化8年(1811)



問題点の解消ならず  長島住吉神社横の道標
三国から堤防を遡って来た能勢街道は堤防を降りて服部神社に向かう分岐
能勢街道はかかれていますが、天竺川を遡る道は書かれていませんでした。
東側にある、高川の堤防は上新田に向かう道が書かれている。(三国街道)
しかし、堤防と道の関係で、天竺川の堤防小曽根側には、堤防から出入りする道が8カ所ありますが、堤防には道は書かれていません。
堤防の部分は省いているのでしょうか!   
疑問の道標 はこちら

2009年7月15日水曜日

豊中の道標

 箕面市立歴史資料館の資料室で下記を見せて貰いました。 
 豊中で一番大きい道標です。
4面の「みち」・「道」の違い。
拓本で原寸大で表しています。
すぐ 上新田 京

役行者に「道」
みのを山 かつをう寺
送信者 豊中
  崩した「道」  大坂・はっとり・天神
送信者 豊中
   わかりやすい「ミち」カタカナ交じり
いたみ・中山
拓本を採り 実寸大を再現していました。
箕面市立歴史資料館にて

2009年7月12日日曜日

わがまち茨木「道標編」

「わがまち茨木 道標編
 買い求めました、
北摂では一番新しい物です。
平成19年3月発行  500円
発行 茨木市・茨木氏教育委員会  P113

いいなと思ったのは  道標の統計が作られていました。
 行き先の集計?
 いつの時代の作か?   
 設立者の分析
など 道標からの時代背景資料になります。
西国街道 椿本本陣
勝尾寺への道標  宿川原町

わがまち茨木

「わがまち 茨木」 街道編

発行 平成4年3月
発行 茨木市・茨木市教育委員会

2009年7月9日木曜日

地蔵さん  ??????


左の2基の石物、後頭部が丸くえぐられています。

この石物は、座って、手を組んでいるようです。

ある話では、阿弥陀さまでこのところで傘を保持していた物で

古い阿弥陀様に見られます。

この後の調査で、笠をかぶっているのであれば 
「突起」のほうが安定する。

 傘をかぶせるのでなく、後ろが頭の前に出てくる。

 次に現在のように直立になっています。

墓で言いますと

 古い物は頭に四角の傘をかぶっていました。

 現代のようになったのは、江戸時代だと言われています。

もう一度写真を見てください。

 左から3番目は丸いくぼみが(溝)片方欠けた物です。
 2011年1月 追加しました  最初は「石仏の溝」としましたが、

地蔵に見られるので「地蔵の溝」に変更します。

 左から4番目は中央が平らで中央に突起が出ています。

  これは、墓と同じ頭に傘をかぶっていたのだと思います。
  追加 暗峠街道で見つけました。年代も古い

その他、ネットで探しましたが、出てきたのは阿弥陀様でなく、
地蔵さんで傘をかぶっています。  例 大変古い物です。


 ですが、これは突起で傘を支持しているようです。

実際には、私も見たことはありません。

 それと、阿弥陀さんがかぶっていた傘を探すのもおもしろいのではないでしょうか!

 

 

2009年7月6日月曜日

祇園祭

夏は「まつり」

ふるさとの心 祭
  地下鉄京都烏丸四条駅  

      記
この車輪は文政十五年より昭和五十四年まで
百五十年の長きにわたり長刀鉾に使用されてきた物であります。

2009年7月4日土曜日

豊中・大阪地域文化財分布図


豊中・大阪地域文化財分布図

新 豊中市史より

摂津国豊嶋郡小曽根郷絵図

摂津国豊嶋郡小曽根郷絵図

          文化8年(1811)

原図 367cm×169cm
「新修 豊中市史」通史編より


摂津国豊嶋郡原田村絵図

摂津国豊嶋郡原田村絵図
文政7年4月(1824)
  右端の能勢街道が「池田道」と表示

原図 60cm×85cm
「新修 豊中市史」通史編より

長興寺・曽根・岡山・福井四カ村池争論立会絵図

長興寺・曽根・岡山・福井四カ村池争論立会絵図
 寛政11年12月(1799)

原図 107cm×121cm
「新修 豊中市史」通史編より

桜井谷六カ村御小物成場絵図

桜井谷六カ村御小物成場絵図

明和3年8月(1766)
原図 139cm×128cm
「新修 豊中市史」通史編より

摂州豊嶋郡椋橋庄御料・私領入組村々絵図

摂州豊嶋郡椋橋庄御料・私領入組村々絵図

延宝五年(1677)
原図 125cm×93cm
「新修 豊中市史」通史編より