2020年8月11日火曜日

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新大阪駅の北、住宅街の民家の前に道標が建っています。

交差点と言うわけでもなく、なんの変哲もない生活道路の途中にあり、どこか他の箇所から移設されてきたかのようです。

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ところが現在の地図と明治初期の地形図を重ねてみると、この地点は旧北宮原村集落を通る街道の曲がり角であったことが分かります。

道標から南(大阪方面)へ向う道が消失したために、今では道標の設置位置としてふさわしくないように見える訳です。

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この街道は、江戸時代以来、大阪から池田、箕面、勝尾寺方面に向うメインルートでした。

明治になり、かつては十三経由で遠回りであった能勢街道に、中津川初の橋である新橋が架けられて近道ができ、池田方面への交通の中心はそちらに移りましたが、こちらのルートも横関街道の名前で大阪府補助里道に指定され、大阪市街東部から北摂への重要路でした。

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明治末、新淀川が開削されて横関の渡し、本庄の渡しが共に廃止され、横関街道は役目を終えて時代とともに消滅して行きました。

移設されたり、設置方向が狂ってしまっている道標も多い中、これだけ周囲の環境が変わったにもかかわらず、かつての位置にそのままの向きで残っためずらしい例と言えます。

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