2019年1月26日土曜日

横関街道 平塚

皆様へ
    前々より横関街道の通行量を知りたいと思っていましたが、山口さんからのきっかけをいただき
   横関渡しの数字で算出してみました。
   一般の通行量は太閤殿下のころから「2文(銭)」と決まっています。
   六郷渡しの試算では荷物込みで20文になっていますが、大阪市史の資料では馬荷は40文以上です。
   
   大阪市大の「淀川横関渡関係文書」の中の寛保3年(1743)の文書に村への運上銀の記載があります。
   濱村へは50匁増額して計125匁、南方村へは75匁上納しています。
   取り分は半々として計算します。
   金1両(8万円)=銀60匁=銭4000文 1文=20円   幕末にはぐっとインフレになります。
   横関渡売上金 銀400匁=26,666文 2文で割ると 13,333人(年)
   ただ横関渡しは2艘の船、署名は宇兵衛さんだけ、別の文書で1年180日勤務の記載があるので、
   上記数字は半年、1人文と推測しました。
   1日 74人 となります。
   これには公用のお役人は含まれません。荷物もそうなります。
   昼間だけでしょうから結構、多いように思えます。
    横関渡はこの後、利用者が増え、長柄渡や十三渡などと客の奪い合いで訴訟合戦となります。
                  
とりあえずこんな数字を出してみました。                    

山さんより返事
  試算ありがとうございます。
   個人的な単純な思い付き・疑問でお手数おかけしてすみません。

   275年前は
   横関の渡しで ざっと100人/日くらいのようですね。
      往復での人数?かな???
     1日を10時間とすると
     10人/時
     1.5人/分  結構多いですね。
     渡しの箇所は賑やかだったのでしょう。
     待ち時間に一服 今風に言うと喫茶店や食事処が
     あったのでしょうね。

   蔵人の横関街道の通行量は
      さっぱり想像がつきません。
      ここを通って渡しを渡った人間は少ないでしょうね。
      主は生活の道ですから
      地元の人間がほとんど
      想像・妄想の世界です。

  情報
   昨日 自転車に乗った年輩の男性が
    自宅の地蔵のことで 「夜泣き地蔵だったのか?」との
    質問を家内にしたらしいです。
   誰だかわかりません。
    参拝に来られたのかな・・・・
   上村さんのブログのおかげでしょうか・・・???

6月頃 お賽銭が 10円玉が 置いてありました。

平さんより返事 
一応往復の人数になります。
   対岸の本庄村の方はここには渡し船はなく、下流すぐに本庄の渡しがありました。
   横関渡・濱村側の堤防の上には渡し守の家が2軒だけ立っていました。(古文書あり)
   榎木の渡しには榎坂側に茶店が1軒あったようですから、横関にも何かあったのでしょう。
   ただ大坂市中よりすぐですので、ゆっくり休んでいくというところではありません。

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