2017年4月15日土曜日

宇陀解説

虫籠窓 むしこまど
庇・幕板・ 1階と二階の中間に庇が設けられている。 「霧除け」雨風から守る 
スリアゲ戸 
ばったり(揚げ店) 商品を置いたり、人が座る
出格子(でごうし) 明治以降に作られた。
座敷玄関 ➡ 式台玄関
切妻造(きりづまづくり)、寄せ棟造り、 入り母屋作り 方形作り(ほうぎょう)  
桟(さん)瓦葺 ➡ 本瓦葺
油壁:粘土砂を混ぜ、もち米の煮汁または油を混ぜ固めて作られる、壁を強度にする。 







宇太水分神社 うたみくまりじんじゃ

宇陀市菟田野古市場

宇陀市榛原下井足(はいばらしもいだに)の宇太水分神社を「下社」、同市菟田野上芳野(うたのかみほうの)の惣社水分神社を「上社」、本項で解説する同市菟田野古市場の神社を「中社」とも称する[1]

10月の第3日曜日には、醍醐天皇の時代、昌泰元(898)年(しょうたい)から始まった由緒ある「お渡り(秋祭り)」が行われます。五穀豊穣、水配りに感謝するお祭りで、惣社水分神社(上芳野)から出発する鳳輦神輿を中心に、芳野川に沿って宇太水分神社まで往復12kmを練り歩きます。
惣社水分神社の女神(速秋津姫神はやあきつひめのかみ)と宇太水分神社の男神(速秋津比古神はやあきつひこのかみ)が年に1度だけ会える日といわれており、女神は鳳輦神輿に乗って渡ります。昔、芳野川上流の入谷には水銀鉱があり、水銀は大変貴重なもので、男神は水銀で化粧品をつくり女神にプレゼントしたという伝説もあります。
鳳輦(ほうれん)は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」
都祁水分神社(つげみくまりじんじゃ)大和国水分四社(都祁・宇陀・吉野・葛城)の一つで、 
当社の歴史は、古来大和国の水分四社の一つで、飛鳥時代の創祀と伝えられています。
最初の鎮座地は、当社より3キロ南方の小山戸カモエ谷の都祁山口神社の地でした。

祭神は速秋津彦神・天水分神・国水分神の三柱の神で、古く本地垂跡説によると阿弥陀三尊と称せられています。

この地に祀られた自然神で、また、農耕神として、大和川、木津川の水源の神として、奈良朝時代「神戸」を寄せられました。
平安時代仁寿2年、官社に列せられ、貞観元年には「正五位下」に進められました。神戸(かんべ/じんこ)とは、古代から中世の日本において特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のこと。 律令制における神社の封戸である神封と同義とされるが、神戸の由来は律令制以来に遡るもので、律令制初期においては神戸と神封は区別されていたとする考え方も有力である。民戸(みんこ)中国明代戸籍の一。農民商人匠戸編入されない手工業者から成り,州県に属し,税役を課せられ,里甲制基礎となった。
延喜式には大社に列し、月次、新嘗の官幣にあずかっています。

 平安時代中期には、当地区に興福寺喜多院二階堂の荘園が成立しました。藺生、小山戸、友田、南殿、白石、無山、向淵の七庄で開発が進むとともに、水分神は信仰を集め、天禄3年9月25日、荘園の中央友田へ遷し祀られることとなりました。

 この社地は奈良朝時代に聖武天皇の行幸された堀越頓宮の伝承地であり、平安時代には伊勢齋宮の皇女が宿られた都介頓宮の跡でもあります。

鎌倉時代の初め喜多院二階堂領は、同じ興福寺の大乗院領となり、水分神社も大乗院家の指示で、当地方に、成長した武士が氏人となり、護持されました。
これらのことは応永31年に作られた当社縁起に詳記されています。

室町中期の明応8年七ケ庄の反米によって造営されたのが現在の本殿です。

江戸時代には七庄の氏神として地方的な信仰をえ、殊に藤堂藩大庄屋、小山戸の北氏は当社の護持に一段と力をつくしています。明治維新の後、当社は郷社となり後県社に列せられました。

長い歴史の荒波に絶え、水分神社が護持されたことは、農耕神として霊験いちじるしい御神徳と一般の方々の手厚い信仰によるものです。

国宝   本殿3棟 
の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる。
日本神話では、神産みの段でハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子として天水分神(あめのみくまりのかみ)・国水分神(くにのみくまりのかみ)が登場する。
水にかかわる神ということで祈雨の対象ともされ、また、田の神や、水源地に祀られるものは山の神とも結びついた。後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、子供の守護神、子授け・安産の神としても信仰されるようになった。
同形同大の社殿3棟が相接して並列する。向かって右から第一殿、第二殿、第三殿で、それぞれ天水分神(みくまりのかみ)、速秋津比古神(ハヤアキツヒコ)、国水分神()を祀る。建築形式はいずれも一間社、隅木入春日造で、屋根は檜皮葺きとする。第一殿の棟木に元応2年(1320年)の墨書があり、第三殿も同時期の建立とみられる。第二殿は棟木に永禄元年(1558年)の墨書があり、この時に新造に近い改築を経たとみられる。第一・第三殿は、隅木入春日造で建立年代の明らかなものとしては最古のものである。身舎と向拝柱の間には繋虹梁(つなぎこうりょう)を渡さず、手挟(たばさみ、柱上の組物と垂木の間に取り付ける三角形の材)を入れるのみである。繋虹梁を用いないのは、3棟の社殿を側面から見た場合の見通しを考慮したためとみられる。

織田家三万石の城下町大宇陀

近鉄榛原駅からバスで道の駅「大宇陀」へ。
奈良県の北東部、高原の町大宇陀は、近世、織田家三万石の城下町として栄えました。道の駅から国道166号の一つ目の信号で交差するのが伊勢本街道へと通じる松山街道です。街道沿いには、虫籠窓や卯建等、今も往時の風情を伝える町家が残り、伝統的建造物群保存地区に指定されています。
ここは、草の豊富なところとしても知られ、日本最古の薬草園である「森野旧薬園」では今も250種類余りの薬草が栽培されています。当地発祥の製薬会社も多く、薬問屋を営んできた細川家住宅を改修した大宇陀歴史文化館「薬の館」では、ゆかりの藤沢薬品に関する資料が展示されています。
まちなみギャラリー・石亭庵や大宇陀歴史文化館「薬の館」などを見ながら歩き、春日神社参道前を左へ。つきあたりの宇陀恵比寿神社前を右にしばらく行くと、宇陀松山城をしのぶ唯一の建物・史跡松山西口関門(黒門)があります。
宇陀松山城(秋山城)は、秋山氏の本城(秋山城)として築かれました。城跡は大宇陀区の市街地部(松山町)の東側にそびえる「古城山」一帯にありました。天正13年(1585)豊臣秀長の大和郡山入部に伴って秋山氏は宇陀から退去。以後、豊臣家支配下の諸将の居城となり、関ケ原の合戦の後には福島孝治が入城しました。

伊勢本街道 榛原町はいばらちょう
奈良県宇陀市榛原町は古くから大和の東の玄関口で、江戸時代には、大和から伊勢に通じる街道の宿場町として賑わいました。近鉄大阪線榛原駅から東へ。線路と並行して駅前商店街を歩いていくと、十字路を南北に通る道にでます。これが大和の大神神社と伊勢神宮を結ぶ伊勢本街道。道を北へ。近鉄のガードをくぐるとすぐ右側に、高さ5mもある石造りの常夜燈「太神宮燈籠」が迎えてくれます。
燈籠のすぐそばの道路脇には「榛原町道路元標」があり、その左手西側に、伊勢本街道から分岐する青越道の正面に堂々と建つ建物は、本居宣長が大和に旅した際に宿泊し「菅笠日記」(すわがさ)の取材をしたことで有名な、荻原宿の旧旅籠「あぶらや」です。
「あぶらや」の前の三叉路「萩原の辻」は近世の高札場であったため「札の辻」ともよばれていました。現在は、宇陀市歴史文化館 旧旅籠「あぶらや」として整備されており、見学することができます。(開館時間:10時~16時・休館日:毎週月・火、12月15日~1月15日)
この辻の東南角に、西面「右いせ本かい道」、北面「左あおこえみち」と刻まれた大きな石の道標が今も昔も通り過ぎる旅人を見守るように立っています。

Q 「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」という俗謡があるようですが、滋賀県の多賀大社と三重県の伊勢神宮とのつながりは何でしょうか。

(平成七年八月 県内行政機関)
A 滋賀県犬上郡多賀町にある多賀神社(昭和二十二年多賀大社と改称)は、平安時代の『延喜式』に「多何神社二座」と見え、この頃までに二神が祀られていたことがわかります。そして、多賀神社への参拝は、「多賀神社文書」などの史料では十五世紀の末頃からたどれますが、早くから「お多賀さん」と親しまれ、広く信仰を集めていたようです。
 こうした信仰の広がりには、中世の「蟻の熊野詣」と言われるほどにぎわった熊野への参詣やその後の伊勢参詣とも関係があるのかもしれません。そのあたりを少し考えてみましょう。
 まず、問い合わせの「お伊勢お多賀の子でござる」ですが、これについては、多賀神社の祭神が伊邪那岐・伊邪那美大神で、この二神は成婚して伊勢神宮の祭神である天照大神を生んだという神話が『古事記』などに伝わっており、伊勢神宮や多賀神社への参詣が多くなるにつれて、こんな俗謡ができたと思われます。また、「お伊勢参ればお多賀へ参れ」は,多賀神社への参詣誘致で、さらに「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、お多賀さまへは月まいり」とも歌いはやされ、盛んに多賀神社の宣伝を行い、その信仰が拡大されていきました。
 特に、「同宿輩(坊人)」たちが全国的に勧進をして回ったことが大きな宣伝効果となったようですが、伊勢神宮での「御師」(おし・おんし)(たちの布教活動と同様の活動が行われていたわけです。全国各地に大般若講や延寿講などの多賀講が組織されたのも、伊勢神宮の参宮講や神明講などと同じです。御師とは宿坊経営参詣人の案内兼ね信仰普及にも寄与した。伊勢では「おんし」という。
 なお、こうした講は江戸時代中期以降に多くなりますが、一方では、信仰の名を借りた物見遊山の旅行という面もあったようです。行き先としては、伊勢神宮・熊野三山を筆頭に、各地の神社寺院が選ばれました。こうした参詣、物見遊山が流行していく中で、伊勢参りの往き帰りに多賀神社へもあわせて参詣する人々も増加するという現象も見られ、互いにつながりを持っていたと言えます。


伊勢街道 旧旅籠〔あぶらや〕諸木野関所跡 伊勢表街道三本松の町屋 札の辻 日本最古の井戸杉〔高井千本杉〕

 伊勢参宮は平安時代から盛んで、室町から江戸時代には伊勢講で賑わいをみせ、御陰参り(一種の無銭旅行)も爆発的に流行し、街道筋でも施行されていました。大阪や奈良から初瀬を経てこの地に入り、国学者の本居宣長も宿泊したという旅籠「あぶらや」前の「札の辻」で街道が二手に分かれ、南進する「伊勢本街道」は高井から千本杉・石割峠から御杖村を経て伊勢へ。東進する「伊勢表街道(初瀬街道)」は三本松、名張・青山高原を越えるため「あを越え道」とも呼ばれていました。現在でも、当時の面影が残る街道は、多くのハイカーに利用されています。

松山街道 薬の館 松山西口関門 大宇陀の街並み

 かつて城下町として栄えた旧松山地区には、情緒豊かな歴史的町並みが残されています。その街道筋である「松山街道」は、南進すると「南路伊勢街道」を経由して「熊野街道」へ。東進すると高見越えで「和歌山街道」へ。北進すると榛原を経由する「伊勢本街道」へ通じるなど交通の要衝でした。これらの道は伊勢参宮のほか、伊勢や熊野から魚や塩、また宇陀松山からは宇陀紙や葛・油・薬などを運ぶ重要な役割を担っていました。
和歌山街道:和歌山から高見山をめざす。 国道24 橋本 吉野 高見トンネル 国道166号線
大和川 
貝ケ平山 標高822m 上流は初瀬川 初瀬ダム 長谷寺を通る  天理市 法隆寺・斑鳩 新王寺駅を過ぎて、関西本線と並走高井田を少し行ったところで西へ 途中河内長野の竜王谷を水源とする石川と合流 柏原市で その後八尾、大阪市と堺の間で    大阪湾へ
宇田川 吉野町と宇陀市との境 竜門岳904.1 一等三角点 上流には宮奥ダムがあり、室生湖 宇陀を通り名張市まで 木津川に合流 木津を経て八幡市で淀川
紀の川 大台ケ原 1695m 全長136km 国見山西側 紀伊水道へ
    奈良県吉野町 五條市JR和歌山線と並行 和歌山県橋本市 和歌山市 で紀伊水道 

室生寺 開祖は興福寺の僧:賢憬けんけい:法相宗 鑑真を河内の国で迎え謁見 江戸中期 興福寺:法相宗から真言宗へ 明治になり真言宗豊山派から真言宗室生寺派の総本山
弘法大師が開いた真言宗聖地 高野山は 修禅の道場 なので、女性は参拝できなかった。女人の入山が許されたことから「女人高野」とよばれる。
伽藍は 室生寺の山麓から中腹にかけてが境内になっている、典型的(てんけい)な山岳仏教伽藍 

 国宝・金堂・五重塔・潅頂堂(本堂・かんじょう)
 

伝統的な仏教の13宗は、華厳宗法相宗律宗真言宗天台宗日蓮宗浄土宗浄土真宗融通念仏宗時宗曹洞宗臨済宗黄檗宗である。

        重文・弥勒堂・奥の院
Image
金堂・
穏やかな柿葺(こけらぶき)の金堂が石段の上に次第に競り上がって、全貌の見える小さな平地に出る。高床の正面一間通りは江戸時代に付加した礼堂で、これが無かった時代には、この石段上から堂内の仏像の姿が拝めたようだ。
五重塔・
屋外に立つ五重塔としては我が国で最も小さく、また法隆寺五重塔に次ぐ古塔である。檜皮葺の屋根や丹塗りの組物が、奥深い樹林に包まれて格別の風情がある。
潅頂堂(本堂・かんじょう)  
ここは真言密教の最も大切な法儀である灌頂を行う堂で、真言寺院の中心であるところから本堂、或いは灌頂堂と言い延慶元年(1308)の建立。五間四方入母屋造りの大きな建築で、和様と大仏様の折衷様式を示す。
弥勒堂・
写真:室生寺の見どころ4金堂前庭の左手にある三間四方のこの堂は、興福寺の伝法院を受け継いだと伝える鎌倉時代の建築で、元は南向きであったのを室町時代に東向きとし、江戸初期にも改造されている。内部の四本柱の中に須弥壇を置き、厨子入りの弥勒像を安置する。
奥の院
Image五重塔の脇を通って高い石段を登り切ると奥の院。弘法大師を祀る御影堂は大師堂とも言い、板葺き二段屋根の宝形造りで、屋上の宝珠と露盤は優品である。各地にある大師堂の中でも最古級の堂。

0 件のコメント:

コメントを投稿