2015年7月26日日曜日

うめだの由来

  JR大阪駅の約700メートル南西の国道2号沿いに、赤穂浪士の矢頭教照・教兼父子がまつられている浄●(●=示へんに右)(じょうゆう)寺がある。寺のすぐ南側には小規模の商業ビルが並んでいるが、そのうちのひとつが「梅田橋ビル」。実はこのビル、現在は日本でも有数の繁華街である「梅田」の地名発祥の数少ない名残とされている。近松門左衛門の「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」に登場する「梅田橋」があった場所で、江戸時代の地図に記載されているのが、この界隈(かいわい)を「梅田」と呼んでいたことを裏付ける最初だという。
グランフロントも…いまや関西の重心「大阪駅前」=「梅田」
 現在の大阪駅周辺は、豊臣秀吉のころは大坂の北の外れだった。淀川のすぐ南にあたるこの地域は海抜ゼロメートルの低地でたびたび川が氾濫した。梅田の北に隣接する「中津」が淀川の支流だった中津川のあった跡であることも、現在の大阪駅周辺が近代に至るまで低湿地であったことを示している。
 この低湿地を埋めて田畑にしたところから「埋め田」と呼ばれ、のちに、めでたい佳字(けいじ)「梅」に変えられたのではないかというのが、「梅田」という地名の由来の定説になっている。
 梅田は江戸時代、すぐ南にある堂島で米取引が盛んになって以降、「梅田橋」がかかっていた「しじみ川」の沿岸部が全国から集まる商人らの遊所となって開け、それが東へ伸びて曽根崎新地へとつながった。
 そして、明治7(1874)年、大阪-神戸間の鉄道開業に伴い、初代の大阪駅「梅田のステンショ(ステーション=駅)」が堂島から「梅田橋」を北へ渡った、現在の大阪駅より数百メートル西方に建設された。周辺にはまだ民家が少なく田畑が広がっていたが、当時は蒸気機関車であったため、木造家屋が密集する地では火災が心配された。また、京都への鉄道延伸計画もあり、神戸から京都への中継駅として大きな敷地が必要だった。このため、初代大阪駅は田畑の真ん中に造られることになったのだ。 鉄道開業当初は運賃も高かったため、一般庶民にとって駅は見物の対象だった。駅への経路も田んぼのあぜ道であったぐらい見晴らしの良い場所だったこともあり、現在のブリーゼタワー(旧サンケイビル)の場所にあった料亭「静観楼」で酒宴を催すかたわら、駅を見物するのが流行だったらしい。
 その後の大阪駅の隆盛は、開業から1カ月で760万人が訪れたグランフロント大阪にいたるまで、言をまたない。その勢いは北側の中津までおよび、高層ビルや高層マンションの建設が続く。
 しかしながら、梅田から中津など淀川沿岸部は古来、軟弱地盤で海抜ゼロメートル地帯であることには変わりはない。大阪府・市の予測では、水害や津波で数メートルの浸水が懸念されているし、地盤情報サイトをみると、浸水の可能性「高い」、揺れやすさ「やや大」、液状化の可能性「非常に大きい」と示される。
 『地名に隠された南海津波』(講談社プラスアルファ新書)の著者、谷川彰英氏は、「水の都・大阪」の原形は、海に突き出す「半島」のようにあった上町台地で、この限られた台地の中に「小さい坂」が多く、この「小坂(おさか)」が転じて「大坂」となり、のちに、「坂は土に還る」意味につながるなどとされ、「大阪」となったとする。
 この地名の変遷は、徳川家康の命で、大坂城代の松平忠明が豊臣家との戦で荒れた地の復興にかかって以降、八百八橋を張り巡らせて川が入り組んだ低湿地を水運によって利し、国内随一の商業都市に変貌させていったことと時を同じくした。さなかの元禄14(1701)年、冒頭で紹介した矢頭父子は浅野家のお家断絶後、にぎわい始めた梅田橋界隈に居を移し、病に侵された父を、息子は川でしじみをとって生計をたてて養った。父の死後、討ち入りの際には、付近の住民が路銀を用立てたというこれも、梅田橋界隈が現在の梅田に変貌していく過程での「都市の記憶」の一幕である。こうした物語をたどることで、次なる災いへ備えるよすがとしたい。

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