2015年4月6日月曜日

別なサイト 大阪駅から吹田駅

ヨネカンの歴史を辿る鉄道 

大阪駅~吹田駅の旧線を歩きます。
実はこの区間は現状と大きく違いがあります、しかし、大阪駅付近から淀川橋梁までは現在とほぼ同じ区間を通っていました。 

大阪市北区本庄西3丁目にある「まんぽ」です、現在この区間は三複線になっていますが、その東側には補強されレンガ部分を白塗りされた、開通時のレンガ造りの構造物が残っています。(写真①)
西側はトンネルを延長したために角の一部だけレンガが顔を出しています。(写真②)
  淀川橋梁手前の道路沿いにはレンガ造りの橋台が残っています。(写真③)
 淀川橋梁の大阪駅寄り第一橋脚はレンガ造りのままです、また、2番目の橋脚以降はレンガ造りの橋脚をコンクリート補強しているようです。(写真④)

淀川橋梁を渡り切ると現行線は北上しますが、開通時の東海道本線は北東へ曲がっていました。 (下図参照。) 
img124.jpg

この地図は明治44年の地形図です。

   この地図をよく見てみると、現・阪急電鉄は梅田から中津、十三を通って三国の方に延びていますが神戸線や京都線はまだ出来ていません、そして路線名は「箕面有馬電気鉄道」と表記されています。。 
   さらに地図の右下、桜ノ宮駅の東側は路線が二つに分かれています、北側の線路が東成線(現・環状線)で南側の線路が桜宮線(旧・関西鉄道)で現在は廃線になり住宅街になっています。

淀川橋梁の京都駅寄りの橋台は下半分がレンガ造りのままです、かさ上げした部分がコンクリートになったのか、レンガ造りの上部だけをコンクリート補強したのかは不明です。(写真⑤)




淀川橋梁を渡った旧線は青い線のように曲がっていたと思われます。(写真⑥)


 さらに旧線は青い線のように曲がっていたと思われますが、果たして道路が廃線跡なのか?左側の工場や店舗が廃線跡なのか?右側の柴島浄水場の敷地内が廃線跡なのかは不明です。(写真⑦)
 淀川橋梁を渡った旧線はこの付近で直線になっていたようです。(写真⑧)

上の写真(写真⑨)と同じ場所から京都方面を見る。(写真⑩)


阪急電鉄淡路駅付近で発見した石積みですが、もしかすると官営鉄道時代に積み上げられた石積みかも?知れません。(写真⑪)
もしかしての大発見!! 
   今まで廃線跡散策の書籍やホームページを見ていて紹介されていなかった明治時代の東海道本線の遺構を発見しました、もしかして、もうどこかで紹介されているかも知れませんが。 

阪急電鉄淡路駅の京都寄りにある暗渠の下にレンガ造りの半円径の橋台が左右に2個づつ残っています。(写真⑫)

 写真⑫はこの下にひっそりと鎮座しています、数年前までは川でしたので確認は出来なかったのかも知れませんが、現在は下水工事が完了し川底は駐輪場になっています。(写真⑬)
阪急電鉄の連続高架工事のために 
   今まで廃線跡散策の書籍やホームページで紹介されていた明治時代の東海道本線の遺構、ほとんどが土に埋まった状態でしたが。 


今回の阪急電鉄連続高架工事に伴い掘り出されていました、下新庄駅の淡路方面行きホームの下にレンガ造りの「まんぽ」が残っているのです。(写真⑭)
下新庄駅の吹田寄り神崎川橋梁手前の井戸口橋梁の下にレンガ造りの橋台が残っているのです、吹田寄りの橋台は何も変哲も無いアバットですが・・・。(写真⑮)
  井戸口橋梁の淡路寄りのレンガ造りの橋台は下部に半円形の掘り込みがあります、向かい合う橋台なのになぜ違いが?。(写真⑯) 
   ここからは明治時代の地図と現代の地図を比較して私なりにたどり着いた 仮説 です。 
   井戸口橋梁は北大阪電鉄時代に構築されたのでは?東海道本線が敷設された明治時代は円形ウェルと言う橋脚が主流でした、現に阪急電鉄淡路駅の下で見つけた橋脚は円形ですし、鴨川に架けられた橋梁も円形ウェルの橋脚でした(古い写真があるそうです)、神崎川橋梁も2箇所だけ円形ウェルの橋脚が残っています。 
   また、神崎川橋梁に見れるレンガ造りの橋脚も円形ウェルの上に載っている橋脚も北大阪電鉄時代に構築された橋脚なのでは?、残っている2箇所の円形ウェルが明治時代の橋脚で川面から1m位のところに鉄橋が架かっていたのでは?堤防も現在の土地より1m程の高さだったのでは?と思われます。





   大阪市と吹田市の間に架かっている神崎川橋梁です、この橋脚はレンガ造りの橋脚や円形ウェルと言う基礎の上にコンクリートの橋脚を載せた橋脚や全体がコンクリートの橋脚など4種類の橋脚が残っています。(写真⑰)
ここで問題提起!!
   このページを編集するに当たり、古地図を数種類手に入れました、古地図を深く読み解くとひとつの疑問に当たってしまいました。
   廃線跡散策を紹介している本や資料を読んでも、廃線跡を紹介しているホームページを見ても、この神崎川橋梁に関しましては、諸説ある中「円筒形の橋脚が開業当時の物で、廃止後、北大阪電鉄(後の新京阪電鉄)の建設時には橋桁が無く、短いガーター橋を設置するために、橋脚が増やされた。」と言う説が主流です。
   しかし、古地図を深く読み解くと異論を唱えたくなりました、東海道線が複線化後の明治44年の古地図には橋脚のシンボルが記入されているではありませんか、また、昭和2年の古地図を良く見ると鉄橋が分断されています。

   地図を元に私が考えた断面図と鉄橋部分の拡大した地図を参考にしてください。
 明治44年の神崎川橋梁付近の地図を拡大してみました、この時代には東海道線は複線化されています、また、鉄橋のシンボルの横には橋脚と思われる表示があります。 
   この地図を元に神崎川橋梁の断面図を書いて見ました。 
 鉄橋を挟む様に南北に堤防状の道路があります、この道路を基準に断面図を書きましたので、以降の断面図や地図はこの道路に注目しながら見比べてください。

昭和2年の神崎川橋梁付近の地図を拡大してみました、この時代には北大阪電鉄(後の新京阪電鉄→阪急電鉄)が官営鉄道から払い下げになった土地を使って線路を敷設したそうです、鉄橋は明治時代と違い部分的に設置されています。 
   この地図を元に神崎川橋梁の断面図を書いて見ました。 

   あくまでも地図を見比べていて私が感じたヒラメキの空想論です。
   この話を突き詰めるためにはもう少し古地図を集めてみたいです、出来れば東海道線が単線時代の地図(明治9年~明治30年頃)と東海道線が新線に移され北大阪電鉄に払い下げられる前の地図(大正2年~大正8年頃)は必須です。


撮影場所ご案内



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