2015年2月2日月曜日

千里丘陵

プロバガンダ 特定の思想世論意識行動へ誘導する意図を持った、宣伝行為である。
ラテン語の propagare(繁殖させる、種をまく)に由来する。


摂津名所図絵 1800催
 島熊山 熊野田村の北にあり 一名鬼ケ嶽(だけ)という 千里(ちさと)山の山脈つづきて険岨催鬼(けんそさいかい)たり 山中大巌多し」 巌がんおおし ごつごつしてけわしい 険しい
なだらかな低い山が続くことから寝山の異名を持つ。
嵯峨天皇が気に入り、何度も訪れた美しい地。

古池 = 鬼ケ谷池 


千里中央駅の開設は(仮設駅)は、万博開催の昭和45年2月で、3月には千里センター、千里阪急百貨店・ホテル、大丸ピーコック、専門店街がオープン。
 昭和47年にセルシー、昭和52年に読売文化ホールが開設。平成4年には、千里ライフサイエンスビル、千里朝日阪急ビルがオープンし、平成9年にはモノレールが大阪空港、門真まで延伸し現在にいたっています。北摂一の賑わいを見せる副都心です。


 公園南端には万博の年、ニュータウン完成を記念して設置された「あほんだら獅子」がデンと構えています。

大阪市立弘済院
 千里ニュータウン開発前からある救済・医療施設です。歴史は明治43年に遡ります。昭和9年に山田事業所として建設され、現在附属病院、小中学校、老人福祉施設などがあります。


竹林保全
 千里東町緑地:毎週木曜日、第二・第四土曜日 午後1時半~3時半
場所: 豊中市・千里東町公園の竹林(千里阪急ホテル裏側)

 第七緑地:毎週土曜日 午後1時半~3時半
場所: 吹田市・千里第七緑地の竹林(南千里中学校横)

 第八緑地:毎週月曜日 午後1時半~3時半
場所: 吹田市・千里第八緑地(スポーツグランド横)
北千里高校の竹炭焼きに協力)


千里竹の会
代表幹事 大津 忠明 
 06-6871-7329
 m-haru@mx2.ca ????
会員常時募集中!


100名参加 柏原考古学研究所
千里古窯跡群  吹田窯跡群  桜井谷窯跡群  100基
陶村窯群すえむらようしぐん・陶邑 は 1000基 古墳時代 
 
永楽荘窯跡

須恵器は古墳時代5世紀に朝鮮半島からう伝えられた製陶技術によって製作された陶質土器である。
 従来の土師器とは異なって、ロクロを用いて成形し、窟窯あながまを用いて、約1150度の還元炎で焼成するため、肉厚が薄く表面は灰色がかっており、強度もあった。古墳時代には主に祭祀や副葬品に用いられたが、奈良時代になると日常の器としても盛んに用いられようになった。

桜井谷窯跡で焼かれた須恵器は和泉の陶邑(すえむら)出土の須恵器編年で分類できるそうだ。桜井谷窯跡では、陶邑より30年ほど遅れて土器が作られるようになり、5世紀後半から8世紀まで須恵器の生産が行われた。

島熊山窯跡
東豊中と新千里南町との境をなす丘陵である島熊山の頂上付近には、多数の須恵器片や焼土・窯壁破片を含んだ灰原(ハイバラ)が広がっている。窯跡は丘陵の斜面、東側か北側にあった物と思われ、千里ニュータウン造成時に、大阪府によって緑地帯の中に取り入れられ保存されている。 
 この窯は、西方の桜井谷に分布する古窯跡群と共に、古墳時代の窯業の一端を知る貴重な遺構である。 
 

上野青池南畔うえのあおいけなんはん窯址」

桜井谷窯跡群の南端に位置し、窯跡群の中では一番古い窯址とされている。この窯址からは、5世紀代まで遡ると思われる須恵器と6世紀後半代の制作と思われる須恵器が出土している。
近くを流れる千里川から底の平らな船で両岸から綱で引っ張り下流または上流へ運ばれた。当然運搬に便利な下流域の当地で最初の頃の窯が作られ、その後、木と土を求めて北へ、上流へ移動していったとされている。昭和5年ころに小林行夫・藤沢一夫両氏によって発掘調査が行われた。調査事例としては最も早い窯跡の一つとして考古学では有名だそうだ。『考古学』第5巻第10号に載せられた調査報告によれば、この窯址は長さが4~5m余り、幅が2m余りで、円筒埴輪と須恵器が出土した。つまり、埴輪窯として使われていた窯が後に須恵器窯として使われるようになったと思われ、こうした転用事例は桜井谷窯跡群のなかではこの窯だけとのことだ。

村町池窯跡は、中国自動車道の南沿いにある「少路南」交差点の南西角にあたる。この付近にはかって下村町池と呼ばれる池があった。大阪環状線と中国自動車道の交差点建設に伴って実施された事前調査で、その池の北西岸から2-18窯址が見つかった。それが下村町池窯址の名で呼ばれている窯址である。
の窯跡は非常にユニークで、5世紀の後半に最初の窯が築かれたが、その後いったん操業を中止し、6世紀の中頃から後半にかけて再び操業が開始された。その後また中断し、7世紀になって規模を縮小してまた須恵器が焼かれた。つまり、この窯は何回も修理や改築をしながら使用されていたようで、三次窯までの使用が確認されているという。
跡が見つかったとされる付近は、現在樹木が茂る丘になっている。「少路南」交差点からその丘のあたりを眺めながら、木下氏の説明を聞いた。まさに心の目で往時の須恵器生産の現場を思い描き、周囲の景観から当時の”雰囲気”を感じ取ろうとした。だが、高速自動車道が築かれた現在では、様相は一変している。
は池の斜面を利用して築かれた地下式の登り窯で、窯の遺構は極めて良好な状態で残っていた。一部は天井部分も陥没しない状態で見つかったという

 下地蔵岡しもじぞうおか窯址

「少路南」交差点を北に抜けた後、西に向かい、千里丘陵を南北に縦断している千里川に架かる橋を渡った。現在はどぶ川に成り下がっているが、この千里川は須恵器を搬出するのに重要な役割を担っていた。桜井谷窯跡群という往時の須恵器工場コンビナートで作られた土器は、この川を利用して各地に運ばれていった。木下氏の想定では、平底の船に須恵器を満載し、船に綱を架けて両岸から船を引っ張りながら、川下や川上に搬出していったという。
里川からさらに北へ歩いて、次の見学地である千里川西岸の下地蔵岡窯址に向かった。窯址は人家の背後にある丘陵斜面の竹藪の中に位置していた。この丘陵は北側の永楽荘から延びてきた支丘を利用して構築されていたようだ。
の真上に墓地が築かれていた。窯の一部は墓地造成で破壊されたが、墓地だったために窯址は幸い残った。1977年に範囲確認調査が行われ、窯の方位や操業時期が確定されている。東側を焚き口とする登り窯で、この付近では一番古い5世紀の窯址とされている。現状は畑地になっていて、畑地が柵で囲まれているため、畑の端から窯のあった付近を遠望するだけだった。

 2-24号窯址

2-24号窯址
2-24号窯址
-19窯址の北側に、2-24窯址の名で呼ばれている別の窯址がある。
本住宅公団の北緑丘団地の建設にともなって、昭和51年(1976)に窯址調査が実施された際に2-19窯址と同時に見つかった。調査の結果、この2-24窯址は千里川東岸の標高64~67m丘陵斜面に立地し、残存長は全長10.5mの登り窯であることが判明した。窯の本体の保存状況は良好だった。

永楽荘
永楽荘窯址遠望
えいらくそう窯址 




永楽荘窯址遠望 永楽荘窯址 永楽荘窯址遠望 永楽荘窯址

 今回の見学で最後に訪れたのは、永楽荘4丁目3番にある6世紀前半ごろに操業していた永楽荘窯址である。今まで見てきた窯址は、その場所に案内板が立っているだけで、実際の窯址は土の下だった。だが、千里川西岸に形成された河岸段丘の上に築かれた永楽荘窯址だけは、実際の窯址が見れると聞いていたので期待していた。 この窯は千里側に向かって南東方向に下る斜面で見つかった。1977年に範囲確認調査を実施したといころ、窯の本体は全長約13m、最大幅2.5m、天井部の高さ2m以上の半地下構造の登り窯で、大阪府内で最大級の窯址であることが判明した。6世紀前半ごろに操業していたが、焼成途中で天井が崩れてしまい、土器とともに捨て去られたようだ。おかげで重要な遺跡となった。 窯の内部には、土器が窯詰めされたままで残っており、当時の窯詰め方法や一窯あたりの生産量など、古代の窯業生産の実態を解明するうえで貴重な資料である。そのため、市は2002年4月1日、「桜井谷窯址群23号窯址」の名で市の指定文化財に指定した。 鍵を開けてもらい遺跡内に入ったが、鋭い雷鳴とともに土砂降りの雨となった。人家の軒を借りて木下氏の説明を聞きながら雨がやむのを待ったが、雨はいっこうに止みそうもなかった。やむなく、急坂を下って西国街道から阪急桜井駅へ向かい、流れ解散となった。

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