2014年11月9日日曜日

横関街道 地名でない街道名(?コメント)  勝尾寺への信仰道 

珍しく コメントです。

横関村は資料に載っている。

皆さんのご意見を頂きたい。

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「まち組」まち歩き11月 終了しました。 柴島でなく「くにじま」?

横関街道  ― 地名でない街道名 ―
    案内 上村 和功・早川 芳子

日 時  平成26年11月7日(金) 崇禅寺駅 1330 集合

行 程 崇禅寺の桜並木 → 旧JR東海道線跡 → 水道記念館 → 淀川堤防 → 川口の道標 → 本庄街道 → 楠木正成首塚 → 東中島の道標 → 日の出路線橋 → 新大阪駅トイレ(中島大水道) → 「横関踏切」 → 宮原の大邸宅 → 宮原の道標 → 春日神社之址 → 蒲田神社 → 榎の渡し → みまき橋 → 馬廻水路 → 糸田川 → 豊津公園解散

 街道名は江戸時代は5街道しか名前がなかった。それ以外はそれぞれの行先で謂い方をしていたが、例えば吹田街道をある地域では伊丹街道とか、吹田街道とかの言い方をする。ここでは明治以降統一された一般的な街道名で表す。西国は高麗橋を起点としていた。(大正時代は 大阪市役所前)
 大阪から北摂には入るには、亀岡街道、横関街道、三国街道などがある。横関街道は吹田を通る街道で南北の街道の一つで、大坂天満で亀岡街道と別れ、中津川を「横関の渡し」で渡り、宮原を通り十八条で神崎川の「榎の渡し」を渡り吹田に入り、その後、蔵人を通り、吹田街道を横切、江坂の西の高川で三国街道と合流し横関街道は消滅する長い街道ではない。横関街道と合流した、三国街道はその後、下新田村(春日町)を経て、上新田村で勝尾寺街道と合流すし、勝尾寺へ、このルートが勝尾寺への最短距離である。
横関街道に関して大阪市に問い合わせましたが、確証は得られていませんでした。
 我々は「横関街道」の名前は知っているが、さて、横関は何処にあるか! 地名に横関村は存在しない。それは、江戸幕府が作成した絵図にも、明治19年の地図にも、村の形跡はない。すなわち横関村は存在しなかったと考えられる。
 では、何故「横関渡し」と言われるのか? 以前に次の考えを披露しました。すなわち、横関とは「横堰」とも書き、関所でなく「堰」に関係していると考えられる。 昔は安威川にも、堰が「吹田の渡し」の上流にあった。中津川にも塩害を防ぐ為の堰があり、その横を渡す「渡し」が「横関の渡し」のいわれと考えられ、その「横関の渡し」から「横関街道」が伝承されたものと思われる。それが横関街道のいわれになる。  
 また、道標に「横関」の記載は私が調べた結果、現在のところ一点のみである。その一点を今日お見せします。

ここは 蒲田神社 前回には気づかない
「白光社」 の祠の下をよく見てください  樹齢650年以上の樟の切株です。
昔は この上に4畳ほどの 瓦ぶきの六角堂があったらしい。 先の阪神大震災で崩壊し、その姿を見ることはできない。
  境内の案内板の写真を見ても その姿を見ることが出来なかった。
  クスノキは写真に撮ってあった。
  皆さん、ここで 遊んでくれました。


もう一つは  ここ



「みまきばし」の親柱  詳しくは こちら



「しばしま」でなく「くにじま」?
駅の中でも、指折りの難読駅名が「柴島」。
知らなければ「しばじま」と読んでしまうのが普通。
 地名の由来には、“今の西淀川区付近を指す難波八十島の1つ茎島(くきしま)が訛った”“薪の原料・クヌギが多く生えたことから「くぬぎ島」と呼ばれていたが、いつしかクニジマになった”“平安時代は「国島」だったのが、国が柴の字に変わり、読み方だけ残った”…と諸説ある。どれも最もらしく、地名由来の謎は深まるばかりだ。

 地名 国次もある。 よく聞かれるのは 下新庄の「鳩ケ瀬」会館・バス停・踏切にもアクセスが多い

***************** 横関村が存在する
コメントを頂きました。 有難うございます。
別なページに掲載させていただきましたが、ここにも掲載します。

「横関村が存在する」資料が見つかる 投稿

コメントがありました。

前から気になっていたのですが、横関村について...
 吹田市史第6巻史料編
174 過書方摂河村々渡船出入控え帳
 549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」
の記載があります。  
天明六年七月二十九日

 ご確認ください。     以上

有難うございます。  吹田市史第6巻史料編 で確認しました。 公文書 確かに、上記のように記載されています。
公文書から 「横関村」が出てきました。 単独名でなく 連名での登場ですので 確かなものです。
 横関村の存在です。   今まで、吹田で言われていた「横関村はない」という説を覆す物になりました。  横関村の存在 何処にあったのでしょうか!
うむ・・・・  横関村が存在するとは?
長柄村
横関村
川口村
成小路村

となります。 検討します。
成小路村 中国道より南側の大阪市内の小さい村が集合した村 

結論は 調べないとわかりません。 これまでの経緯
  
私が、このブログで調べた結果を公表しています。その根拠となる物は下記のとおりです。
最初は 「横関街道」、で「横関は何処にあるのですか?」 という疑問が始まりです。
江坂の交差点に蔵人 ありますが、昔、蔵人という村はあったが、現在はない。明治の地図では 蔵人の町並みが見られ、下の地図では「蔵人村」は、「江坂村の内蔵人村」になっているので、江坂村に統合されたのではないでしょうか。  ただ、「交差点名」、地名・蔵人は残っています。
さて 横関 です。

1.最初、いろんな人に問い合わせたが一般的に 「横関村」は地名にないというのが 吹田の人にとっては一般的です。  その他に大坂の人にも聞きましたが 横関という地名、横関村という村の存在もないといいうことでした。 

 そこで終わればいいのですが。 
 それなら、何故 「横関街道」と命名されているのかというのが次の問題です。
 簡単に「横関の渡し」からの命名となります。  
 でも、本当に横関の地名・村は存在しなかったのか! 明治の地図によると集落跡はみつからない。 消滅した村なのか

2.大阪市に問い合わせたが 「横関街道」について問合せ  横関村の存在は確認できなかった。
    横関村があった、なかった。ということは言及されていません。
    横関街道は「横関の渡し」から横関街道となったのが有力

3. 江戸幕府か作成し、それには街道が赤い線で表示されていて、村名、石高が表示された地図 には 
  よこぜき村は存在しない。
  国立公文書館所蔵 元禄摂津国絵図(1696~1702) 重要文化財
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000944

今のところ 以上の結果から 横関村はなく、村名、地名を付ける街道が横関街道ではないこと。
銀山街道とか馬街道と同じく
堰の横を通る渡し「横関の渡し」から 横関街道となったのが 最有力です。

そこで 最初に吹田では 横関はない ということから調査しましたが 吹田市史に横関村が存在することになります。
  では、地図上では何処になるのでしょうか!

2 件のコメント:

  1.  前から気になっていたのですが、横関村について...
     吹田市史第6巻史料編
    174 過書方摂河村々渡船出入控え帳
     549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」
    の記載があります。

     ご確認ください。     以上

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  2. ご無沙汰しております。
    久しぶりの横関街道コメント3です。
     
     大阪市に情報公開請求していたものが届いたので報告します。
     「大字濱字別見取図」大正時代のものとのことです。いわゆる村図です。

    1)大字濱には字横関はない
    これと手元の淀川河川工事事務所で入手した
    「買収図」(明治29年頃?)と比較しました。一致しています。
    しかし、1番から10番まで振られた字に横関はありません。文納はあります。

     したがって大正11年刊行の「大阪府全志」の記述「大字濱に字横関がある」は?となります。ナンバー2の私のコメントは訂正します。

    2)渡しの関係者の住居について
     濱村側の渡場のすぐ北、自然堤防のわきに
    1軒家屋があります。これは明治18年の地図にも明示されています。買収図だと字中津古407番地です。これが渡し守の家だったのでしょう。
     本庄側の渡場には近くになく、200mほど離れたところに9軒の家屋があります。

    3)横関村の存在?
     私が指摘した文書以外には横関村はでてきません。川船関係の古文書を見てみましたが
    濱村さえも出てきません。

    横関については私にとっては本題ではないので、これまでとします。
                    以上

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