明日は七夕 10年間での降水確率 23%
明日は 雨か!
追加2
2015/07/01 奄美大島で拓本が出来る方を探しています。 私は拓本はやったことがありません。 問い合わせをしているのですが! いい返事はありません。
このページ 関心があるようです。 大事な表示は 消したのですが!
奄美で見つかった 2015/10/05
中国道と能勢街道の分岐に立って居た 道標です。
「下三番道標」 が残っていますので、お分かりだと思いいます。
これはすごいですね!
奄美大島に行った時、これ下3番の道標だと思っていたのですが、そのままでした。
以前の 中国道の道標も・・・・・ 大阪市内は道標の宝庫ですね!
追加1
2015/02/17 大阪市立中央図書館 調査相談担当空の返事
明日は 雨か!
追加2
2015/07/01 奄美大島で拓本が出来る方を探しています。 私は拓本はやったことがありません。 問い合わせをしているのですが! いい返事はありません。
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奄美で見つかった 2015/10/05
中国道と能勢街道の分岐に立って居た 道標です。
「下三番道標」 が残っていますので、お分かりだと思いいます。
これはすごいですね!
奄美大島に行った時、これ下3番の道標だと思っていたのですが、そのままでした。
以前の 中国道の道標も・・・・・ 大阪市内は道標の宝庫ですね!
- 十三 の道標 2基 2011年4月20日水曜日
- これもすごい、ですが、大阪市内でしたので、詳しくは調べていませんでした。
追加1
2015/02/17 大阪市立中央図書館 調査相談担当空の返事
お問い合わせいただきました件につきまして回答いたします。
【質問内容】
1.大阪市内に「たかつ橋」という橋があったか
2.大阪市内に「やきやま」とつく橋があったか
【回答】
1. 下記資料に、高津入堀川に「高津橋」が架かっていたことが確認できました。
『大阪の橋』松村 博/著 松籟社,1987<当館書誌ID:0000164468>
p.275-280に「高津入堀川(こうずいりぼりがわ)の橋」の項目があり、
その内、p.278 「入堀の橋数」の項に「高津入堀川には開削とほぼ同時期に
六つの橋がかけられたと思われる。道頓堀に近いところから南へ清津橋(きよつ
ばし)、吉田橋(よしだばし)、末広橋(すえひろばし)があり、川が東折して
南北方向に高津橋(たかつばし)が架かり、さらに南折して福知橋(福智橋:
ふくちばし)、沖田橋(おきたばし)が架けられていた。」との記述があります。
また、p.277には、『摂州大阪地図』(文化3年)の高津入堀川附近の地図が
挿図として掲載されています。
『大阪の町名 : 大阪三郷から東西南北四区へ』
大阪町名研究会/編 清文堂,1977.9<当館書誌ID:0070049341>
p.387-p.390「高津町一~十番丁」の項の内、p.390の6-9行目に、「高津橋七番
丁、今は埋め立てられ道路になっている高津入堀川にかかっていた高津橋南詰に、
(後略)」との記述があります。
2.あいにくですが、上述の『大阪の橋』をはじめ当館所蔵の橋や碑に関する資料
には、大阪市内に「やきやま」とつく橋があったことは確認できませんでした。
以上、回答とさせていただきます。
上記でご紹介しました資料は、ご来館予定の当日に、
下記調査相談担当までお電話いただきましたら、
④ 徳本寺への道標 ⑤ 「巡礼橋」の親柱
地域もバラバラです。大阪市、豊中市、池田市と考えられる。
まず①から 上の写真の面を 正面とします。 地上より高さ 百五十センチ
左面 30センチ 横が 29センチ の巨大な道標です。
道標表示②
この下は
すぐ 十三? かんざ記 中山道 面白いのが分かりますか
表示 かんざきを かんざ記 となっていることです。
その下には 中国道を表します。
解読し教えて下さい
右 のみち?(明治以降の能勢街道)
(大きく) 左 おはつ天神? よどやばし と
裏面になります
道標表示 ③
天保十三年(1842) 明治元年は1868 もうすぐ明治
道標表示 ④
右面
大きな文字で上に 「すぐ」と下に「右」とある???? 珍しい 初めて見ます。
この道標の表示は全ての方功の面では このように上下形式を取っています。
すぐ 右 おはつ天神? よどやばし
(小さく) 右 のミち
スケッチ画から解読すると
道標表示 ①
右 すぐのみち 右 てんま天じん なにははし
左 十そう かんざき なかやまへ
解説 三叉路に立っていたものと思われる。
中国道の案内になり、右 てんま天じん なにははし で高麗橋になる。
道標表示 ②
十そう 右 のみち
すぐ かんざき 左 おまつ天神
中山へ よどやばし
解説 すぐと 右 のみち は理解できるが、おまつ天神、淀屋橋のルートを探る。
てんま天じん なにははしから来て、よどやばしの道はない。
中国道を高麗橋方面に戻ると
明治18年の地図に、 JRの東海道線と環状線の間に
おまつ天神、淀屋橋に折れる道があり、この道のことをさしている者と考え
られる。
表記方法として、すぐと右は並列にすべきであった方が、理解されやすい。
道標表示 ③ スケッチには記載なし
天保十三年(1842)
道標表示 ④
なにわばし おまつ天神
すぐ 右 よどやばし
てんま天神 左 のみち
解説 「すぐ」 と 「右」 の表示は 「すぐ」が主で 暫くまっすぐに そして途中で「みぎへ」というあんないである。 同様な表示方法は、十三の神津神社にある道標「小島北口道標」がそれである。 だが、同様に 左 のみちの説明はできない。 この道標では 先にも述べたが、表記方法 ここでは、すぐと左を並列に表記されていればもっとわかりやすい。
もう一つ、中国道から、おまつ天神、淀屋橋への道は、明治18年の地図に、 JRの東海道線と環状線の間に おまつ天神、淀屋橋に折れる道があり、其の後、分岐して、新御堂筋とわかれているので、その中国道との道のことをさしているものと考えられる。
以上のことからこの道標が立っていた場所を推定すると
中国道沿いに建ち 右 の道 との分岐 右 野道 は明治の能勢街道と考えるのがだとうである、今の 大淀警察署南の角に建っていたものでしょう。
訂正 2015/06/13 中国道の淀屋橋への道は、上の地図に因る。 この道標は 下三番村、中国道と野道分岐 野道は明治以降 一般に言われる、能勢街道にあたる。 現代的に言うならば、中国道と能勢街道の分岐・下三番に建っていた。
すごい発見になりました。 旧在所の地図を掲載 2016/04/12
「下三番道標」:中国街道と「野道」への分岐の道標だ!
大発見です。 気付かないものですね! こんな道標に気づかないとは!
明治二十四年には中国街道は国道二十六号線 西成郡中津村大字下三番に立っていて、
「中国道」と「能勢街道」との分岐となる。これは 天保十三年で この時分
には能勢街道ではなく、「のみち」=野道、だったことがわかる。
能勢街道は それまで経路が違う 明治五年の通達で 能勢街道(ことの時は池田街道と言っていた。)は 本庄渡を経て池田より能勢丹波に至る 道幅二間 となっている。
街道に関して大阪府の定める起点経路は こ ち ら
これは 「見つかった道標」として登録
≪回答文≫ 大阪市 10/6返信
お問合せ内容を教育委員会事務局 文化財保護担当へ確認いたしましたが、
残念がらこの度の道標に関する情報は持ち合わせていないとのことでした。
何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。
管理者コメント 大阪市内の道標を調査するのも面白いのでは
全てが 新しい発見になる。
次に ②,③ は 「忘れられた橋」 に登録
何処にあった橋でしょうか! から 丸一日掛りました 調べた結果
「たかつ橋」の親柱 対の柱で 上の写真(片方の柱)には「高津橋」
高津:こうずとは書かれていなかった。
かさの大きさ 大きい部分 46センチ角 高さ 23
下の柱の部分 24.5センチ 高さ70 全ての高さ 93センチ
「橋」の部分が隠れているので 1メートル以上の大きさになる。
その① これを調べるのに丸1日掛りました。
大阪市内に ありました。 ウィキペディアの中にありました。 高津入堀川(こうづいりほりがわ)に
同一視することは 出来ませんが まずは 第一歩です。
道頓堀川の下大和橋下流側から南へ分岐し、西高津新地内で一度クランク状に折れ曲がり、国道25号の手前で西へ、南海本線を潜ってすぐ北へ向きを変え、浪速区役所の南東で難波入堀川(難波新川)・鼬川に合流していた。長さは約1.8km。現在はクランクより上流側の区間を除いて阪神高速1号環状線の敷地に利用されている。 享保19年1734 開削
大阪市内の川の地図写真は右側の地図 13:難波新川 14:高津入堀川
地図は こちら
橋を調べていたら 新しいことが
③ 運河連結工事中に 古代のくり船が発見さた。碑は浪速区難波中3丁目
またまた新しいことが・・・・
調べることは 楽しいですね ルンルン
*********************
大阪市内の物と考えられる。 この情報は得られず。
大阪市内の橋の専門家からの返事もまだです。
その④
豊中市の道標
徳林寺への案内 中桜塚二-二八-二十 原田神社のあたりにあったとか
高さ 109 横幅 25 厚み 16
左 徳本行者御旧蹟是ヨリ Ⅲ一丁余 上新田 常光庵徳林寺 熊野田 佛眼寺
その⑤ 巡礼橋の親柱 「忘れられた橋」に登録?
「巡礼橋」 とは 池田市にあった巡礼橋ではないですか!
回答 その② 茨木市からの手紙 10/17 もう一つの電話
【質問内容】
1.大阪市内に「たかつ橋」という橋があったか
2.大阪市内に「やきやま」とつく橋があったか
【回答】
1. 下記資料に、高津入堀川に「高津橋」が架かっていたことが確認できました。
『大阪の橋』松村 博/著 松籟社,1987<当館書誌ID:0000164468>
p.275-280に「高津入堀川(こうずいりぼりがわ)の橋」の項目があり、
その内、p.278 「入堀の橋数」の項に「高津入堀川には開削とほぼ同時期に
六つの橋がかけられたと思われる。道頓堀に近いところから南へ清津橋(きよつ
ばし)、吉田橋(よしだばし)、末広橋(すえひろばし)があり、川が東折して
南北方向に高津橋(たかつばし)が架かり、さらに南折して福知橋(福智橋:
ふくちばし)、沖田橋(おきたばし)が架けられていた。」との記述があります。
また、p.277には、『摂州大阪地図』(文化3年)の高津入堀川附近の地図が
挿図として掲載されています。
『大阪の町名 : 大阪三郷から東西南北四区へ』
大阪町名研究会/編 清文堂,1977.9<当館書誌ID:0070049341>
p.387-p.390「高津町一~十番丁」の項の内、p.390の6-9行目に、「高津橋七番
丁、今は埋め立てられ道路になっている高津入堀川にかかっていた高津橋南詰に、
(後略)」との記述があります。
2.あいにくですが、上述の『大阪の橋』をはじめ当館所蔵の橋や碑に関する資料
には、大阪市内に「やきやま」とつく橋があったことは確認できませんでした。
以上、回答とさせていただきます。
上記でご紹介しました資料は、ご来館予定の当日に、
下記調査相談担当までお電話いただきましたら、
お取り置きができる場合もありますので、お気軽にお問い合わせください。
『大阪の橋』松村 博/著 松籟社,1987
『大阪の町名 : 大阪三郷から東西南北四区へ』大阪町名研究会/編 清文堂,1977.9
ありがとうございました。
********************
解説付きの一枚のスケッチ画から始まる奄美の旅
奄美で見つけた 「たかつばし」・「高津橋」の親柱
服部緑地にあった「サボテン公園」 in 奄美④
寸法記入・「巡礼橋」茨木市からの回答 10/18
炎上中 訪問者 激増 10日間で 60件 10/15
史跡、文化財の解説付き スケッチ画から
最初のきっかけは、展示のために原画を再度見ていて気づきました。
スケッチ「徳林院への道の道標」の中に
「巡礼橋」 「大きな道標」 「たかつはし」 何これ!
下の絵は 大きな道標 表示から 下三番の道標と考えられる。
情報では破壊された「南町のだんじり」の様子も探るため
原 野 農 芸 博 物 館の所蔵石物 調査報告
昔 服部緑地にあった「サボテン公園」
現在は 奄美大島 「奄美アイランド」へ
「サボテンえん」の入り口
何か見えてきました。 昔の「サボテン公園」のゲージ
移転に当たり 服部緑地をそのまま移築 とのこと 平成元年オープン
この写真に 「サボテン公園」案内と「ラ・ベッタの巨石人頭像」が映っています。
よーく観察してください。2つがあるのです。
分かりますか! 原画とは似ても似つかない、全然違う角度です。 それでも 案内と対に描かれている「巨石人頭像」 このようなことが出来るのが スケッチです。
原画を確認してください。
石物①
もう一つの ラ・ベッタ
ありましたありました。第一関門です。 続いて
石物②
豊中の道標 NO.13 梵字大峰道標
180センチ 31.7×23.8 大きな道標です。
(正面)
大峯山 三十三供養 右 大阪 左 吹田
(右面)
明治四十年八月建立 長興寺花王講
寄進 中務四右衛門
(左面)
世 話 人 講 中
地主 田井巳之助
石物その他
道標表示 ①上の道標の通路の反対側には 左から①、②、③、④、⑤ の石碑が
②③は形状からして対の物 「高津橋」の親柱④ 徳本寺への道標 ⑤ 「巡礼橋」の親柱
地域もバラバラです。大阪市、豊中市、池田市と考えられる。
まず①から 上の写真の面を 正面とします。 地上より高さ 百五十センチ
左面 30センチ 横が 29センチ の巨大な道標です。
道標表示②
この下は
すぐ 十三? かんざ記 中山道 面白いのが分かりますか
表示 かんざきを かんざ記 となっていることです。
その下には 中国道を表します。
解読し教えて下さい
右 のみち?(明治以降の能勢街道)
(大きく) 左 おはつ天神? よどやばし と
裏面になります
道標表示 ③
天保十三年(1842) 明治元年は1868 もうすぐ明治
道標表示 ④
右面
大きな文字で上に 「すぐ」と下に「右」とある???? 珍しい 初めて見ます。
この道標の表示は全ての方功の面では このように上下形式を取っています。
すぐ 右 おはつ天神? よどやばし
(小さく) 右 のミち
スケッチ画から解読すると
道標表示 ①
右 すぐのみち 右 てんま天じん なにははし
左 十そう かんざき なかやまへ
解説 三叉路に立っていたものと思われる。
中国道の案内になり、右 てんま天じん なにははし で高麗橋になる。
道標表示 ②
十そう 右 のみち
すぐ かんざき 左 おまつ天神
中山へ よどやばし
解説 すぐと 右 のみち は理解できるが、おまつ天神、淀屋橋のルートを探る。
てんま天じん なにははしから来て、よどやばしの道はない。
中国道を高麗橋方面に戻ると
明治18年の地図に、 JRの東海道線と環状線の間に
おまつ天神、淀屋橋に折れる道があり、この道のことをさしている者と考え
られる。
表記方法として、すぐと右は並列にすべきであった方が、理解されやすい。
道標表示 ③ スケッチには記載なし
天保十三年(1842)
道標表示 ④
なにわばし おまつ天神
すぐ 右 よどやばし
てんま天神 左 のみち
解説 「すぐ」 と 「右」 の表示は 「すぐ」が主で 暫くまっすぐに そして途中で「みぎへ」というあんないである。 同様な表示方法は、十三の神津神社にある道標「小島北口道標」がそれである。 だが、同様に 左 のみちの説明はできない。 この道標では 先にも述べたが、表記方法 ここでは、すぐと左を並列に表記されていればもっとわかりやすい。
もう一つ、中国道から、おまつ天神、淀屋橋への道は、明治18年の地図に、 JRの東海道線と環状線の間に おまつ天神、淀屋橋に折れる道があり、其の後、分岐して、新御堂筋とわかれているので、その中国道との道のことをさしているものと考えられる。
以上のことからこの道標が立っていた場所を推定すると
中国道沿いに建ち 右 の道 との分岐 右 野道 は明治の能勢街道と考えるのがだとうである、
訂正 2015/06/13 中国道の淀屋橋への道は、上の地図に因る。 この道標は 下三番村、中国道と野道分岐 野道は明治以降 一般に言われる、能勢街道にあたる。 現代的に言うならば、中国道と能勢街道の分岐・下三番に建っていた。
すごい発見になりました。 旧在所の地図を掲載 2016/04/12
「下三番道標」:中国街道と「野道」への分岐の道標だ!
大発見です。 気付かないものですね! こんな道標に気づかないとは!
明治二十四年には中国街道は国道二十六号線 西成郡中津村大字下三番に立っていて、
「中国道」と「能勢街道」との分岐となる。これは 天保十三年で この時分
には能勢街道ではなく、「のみち」=野道、だったことがわかる。
能勢街道は それまで経路が違う 明治五年の通達で 能勢街道(ことの時は池田街道と言っていた。)は 本庄渡を経て池田より能勢丹波に至る 道幅二間 となっている。
街道に関して大阪府の定める起点経路は こ ち ら
これは 「見つかった道標」として登録
≪回答文≫ 大阪市 10/6返信
お問合せ内容を教育委員会事務局 文化財保護担当へ確認いたしましたが、
残念がらこの度の道標に関する情報は持ち合わせていないとのことでした。
何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。
管理者コメント 大阪市内の道標を調査するのも面白いのでは
全てが 新しい発見になる。
次に ②,③ は 「忘れられた橋」 に登録
何処にあった橋でしょうか! から 丸一日掛りました 調べた結果
「たかつ橋」の親柱 対の柱で 上の写真(片方の柱)には「高津橋」
高津:こうずとは書かれていなかった。
かさの大きさ 大きい部分 46センチ角 高さ 23
下の柱の部分 24.5センチ 高さ70 全ての高さ 93センチ
「橋」の部分が隠れているので 1メートル以上の大きさになる。
その① これを調べるのに丸1日掛りました。
大阪市内に ありました。 ウィキペディアの中にありました。 高津入堀川(こうづいりほりがわ)に
同一視することは 出来ませんが まずは 第一歩です。
道頓堀川の下大和橋下流側から南へ分岐し、西高津新地内で一度クランク状に折れ曲がり、国道25号の手前で西へ、南海本線を潜ってすぐ北へ向きを変え、浪速区役所の南東で難波入堀川(難波新川)・鼬川に合流していた。長さは約1.8km。現在はクランクより上流側の区間を除いて阪神高速1号環状線の敷地に利用されている。 享保19年1734 開削
大阪市内の川の地図写真は右側の地図 13:難波新川 14:高津入堀川
地図は こちら
上記の地図から読み取ります。
道頓堀からの堀 「高津入堀川」の上流からの橋
- 清津橋
- 吉田橋
- 磐舟橋 - 千日前通
- 末広橋
- 「高津橋」読み方は 「こうずはし」でなく「たかつはし」 この橋でしょうか! 写真か絵があるといいのですが!
- 福知橋
- 沖田橋
- 堀初橋
- 深田橋
- 薗坪橋
- 愛染橋
- 増井橋
- 玉水橋
- 名呉橋 - 堺筋
- 夕日橋
- 広田橋
- 星池橋
- 高岸橋
- 船出橋
橋を特定するには 余りに無謀であるが 一つの考え方としては有効であるので、
「忘れられた橋」として あげておく。
① 環状線芦原橋 鼬川にかかっていた橋 一度は見に行きたい。
大阪環状線鼬川橋梁(芦原橋交差点付近)
② 平野川の調節池 最後はポンプで木津川に こちら③ 運河連結工事中に 古代のくり船が発見さた。碑は浪速区難波中3丁目
またまた新しいことが・・・・
調べることは 楽しいですね ルンルン
*********************
大阪市内の物と考えられる。 この情報は得られず。
大阪市内の橋の専門家からの返事もまだです。
その④
豊中市の道標
徳林寺への案内 中桜塚二-二八-二十 原田神社のあたりにあったとか
高さ 109 横幅 25 厚み 16
左 徳本行者御旧蹟是ヨリ Ⅲ一丁余 上新田 常光庵徳林寺 熊野田 佛眼寺
その⑤ 巡礼橋の親柱 「忘れられた橋」に登録?
「巡礼橋」 とは 池田市にあった巡礼橋ではないですか!
後ろは 欄干の丸い穴が
直径 30センチ 下の括れまで 15センチ 全高さ 90センチ
「橋」の部分が無いので 高さは 1メートルを越すものになる。
「橋」の部分が無いので 高さは 1メートルを越すものになる。
「巡礼橋」の以上の写真情報を池田市、後から知った茨木市に問い合わせ
結論から先に 分からない ということでした。 保管されているところも 池田の「巡礼橋」の親柱 となっていますが。 資料としては残っていません。
池田が有力です。 もう一つは 欄干、親柱の大きさから推測すると、大きい川に架かっていたものと思われる程、大きな 親柱です。
追加 2014/11/22
「巡礼橋」 広報池田 平成2年7月1日号 別な調査で 池田で見つけました。
回答を掲載します。「巡礼橋」 広報池田 平成2年7月1日号 別な調査で 池田で見つけました。
市民レポーターの話
明治10年頃まで「巡礼橋」と呼ばれていた。その橋は 文化12年 大きな橋に変わった。
175年
上村 和功 様
このたびは、本市の歴史文化に関心をお寄せいただき、お問い合わせくださいましてありがとうございます。
奄美大島で発見されたという「巡礼橋」親柱について、本市のものであるかどうかということですが、確かに市内に2ヵ所、茨木川(五日市2丁目)と勝尾寺川(宿河原町)に 架かる「巡礼橋」と呼ばれる橋が存在します。
そこで、文化財資料館及び市史編さん室にも問合せ、調査を行いましたが、結果として
本市のものであるかどうかはわかりませんでした。
お役にたてず申し訳ございません。
なお、今後とも本市に関連すると思われる歴史遺産に関して、何か情報等がございましたならば、お知らせいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
回答 その①
池田市の回答 10/7
ご連絡、どうもありがとうございます。
前回、福西茂氏の冊子につきましては、
弊市中央公民館からお渡しさせていただいたかと思いますが、
今回は、弊市教育委員会 生涯学習推進課からお答えいたします。
数々の石碑類が奄美大島に移転されていることは初めて知りました。
貴重な情報、どうもありがとうございました。
ご指摘の「巡礼」橋親柱ですが、結論を先に申し上げますと、
はっきりしたことは分かりませんでした。
呉服橋の古い写真ですが、こちらで確認できる写真は、
大正期と昭和初期のものだけです。
昭和期はまったく規模・形状が違っております。
大正期の写真のうち、はっきりと親柱がみえるものは、
書籍にも収められています
(池田市役所平成元年発行『市制施行記念誌 池田50年写真集』、
郷土出版社平成7年発行『目で見る北摂の100年』)。
最上部がくびれているのは似ていますが
形状は円柱でなく、角柱で「呉服橋」「くれはゝし」とあります。
ご指摘の親柱は古い呼称である「巡礼」橋の名称でつくられていることや
大きさなどから、もしもこの石碑が「呉服橋」のものとしますと、
大正期よりも遡るものかとも思われますが、
いずれにせよ、裏付けとなるような資料は見つけることが出来ませんでした。
いただきました情報は、こちらでも記録し、何か分かりましたら、
またお伝えしたいと思います。そちらでもお分かりになりましたら、
ぜひご教授いただけましたら幸いです。
茨木市にもあるので そちらもチェックします。
この橋も特定することはできないが、親柱の大きさから 川幅の広い所と考えられる。
その他の石物
「浪花石」?? 石の文字に点があるが???
石物の道
石棺と言われている。 道路 又は 溝の橋にしようされていたという。
巨大な臼
当原野農芸博物館の所蔵石物のデータはすべて
先の「2010.10.20 奄美集中豪雨」 失っているとのことです。
石物は残っていました。
以上の資料で 再度 関係のある市役所に問い合わせをしなければならない。
① この石物・道標が現存していることを知らせる。
② この石物・道標に関係している資料はないか!
③ この石物・道標の旧在所が分からないか!
情報をお寄せください。
今西茂さんの資料から 奄美へ調査
その調査で分かったこと
「見つかった道標」1基、「忘れられた橋」2基
すごいではないですか!
やった! やった!
宝が出てきました。
使用しなくなった石物等を預かっていた
以前の「サボテン公園」の存在が重要になる。
それに代わるものが 今、北摂にあるのでしょうか!
******************
奄美大島訪問計画 2014/9/18
「Yooは 何しに 奄美へ?」
「サボテン公園」
昔、吹田市南町にあった「ダンジリ」
原 野 農 芸 博 物 館
「奄美アイランド」
奄美の滞在日記
スケッチ画から池田市の探索
福西茂さんのスケッチ画から 針中野探索
奄美大島で発見されたという「巡礼橋」親柱について、本市のものであるかどうかということですが、確かに市内に2ヵ所、茨木川(五日市2丁目)と勝尾寺川(宿河原町)に 架かる「巡礼橋」と呼ばれる橋が存在します。
そこで、文化財資料館及び市史編さん室にも問合せ、調査を行いましたが、結果として
本市のものであるかどうかはわかりませんでした。
お役にたてず申し訳ございません。
なお、今後とも本市に関連すると思われる歴史遺産に関して、何か情報等がございましたならば、お知らせいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
茨木市教育委員会 教育総務部 社会教育振興課文化財係
回答 その①
池田市の回答 10/7
ご連絡、どうもありがとうございます。
前回、福西茂氏の冊子につきましては、
弊市中央公民館からお渡しさせていただいたかと思いますが、
今回は、弊市教育委員会 生涯学習推進課からお答えいたします。
数々の石碑類が奄美大島に移転されていることは初めて知りました。
貴重な情報、どうもありがとうございました。
ご指摘の「巡礼」橋親柱ですが、結論を先に申し上げますと、
はっきりしたことは分かりませんでした。
呉服橋の古い写真ですが、こちらで確認できる写真は、
大正期と昭和初期のものだけです。
昭和期はまったく規模・形状が違っております。
大正期の写真のうち、はっきりと親柱がみえるものは、
書籍にも収められています
(池田市役所平成元年発行『市制施行記念誌 池田50年写真集』、
郷土出版社平成7年発行『目で見る北摂の100年』)。
最上部がくびれているのは似ていますが
形状は円柱でなく、角柱で「呉服橋」「くれはゝし」とあります。
ご指摘の親柱は古い呼称である「巡礼」橋の名称でつくられていることや
大きさなどから、もしもこの石碑が「呉服橋」のものとしますと、
大正期よりも遡るものかとも思われますが、
いずれにせよ、裏付けとなるような資料は見つけることが出来ませんでした。
いただきました情報は、こちらでも記録し、何か分かりましたら、
またお伝えしたいと思います。そちらでもお分かりになりましたら、
ぜひご教授いただけましたら幸いです。
池田市教育委員会生涯学習推進課
茨木市にもあるので そちらもチェックします。
この橋も特定することはできないが、親柱の大きさから 川幅の広い所と考えられる。
その他の石物
「浪花石」?? 石の文字に点があるが???
石物の道
石棺と言われている。 道路 又は 溝の橋にしようされていたという。
巨大な臼
当原野農芸博物館の所蔵石物のデータはすべて
先の「2010.10.20 奄美集中豪雨」 失っているとのことです。
石物は残っていました。
以上の資料で 再度 関係のある市役所に問い合わせをしなければならない。
① この石物・道標が現存していることを知らせる。
② この石物・道標に関係している資料はないか!
③ この石物・道標の旧在所が分からないか!
情報をお寄せください。
今西茂さんの資料から 奄美へ調査
その調査で分かったこと
「見つかった道標」1基、「忘れられた橋」2基
すごいではないですか!
やった! やった!
宝が出てきました。
使用しなくなった石物等を預かっていた
以前の「サボテン公園」の存在が重要になる。
それに代わるものが 今、北摂にあるのでしょうか!
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奄美大島訪問計画 2014/9/18
「Yooは 何しに 奄美へ?」
「サボテン公園」
吹田こんなところ! 新しい発見あり
原 野 農 芸 博 物 館
「奄美アイランド」
奄美の滞在日記
スケッチ画から池田市の探索
福西茂さんのスケッチ画から 針中野探索
服部緑地にあった「サボテン公園」がそのまま奄美大島に移転してあるとは全く想像を越えた現実ですね。しかも明らかに大阪にあった道標や橋の柱まで保存されているのは、大阪と奄美との友好の証の記録なのでしょうか。なんらかの資料が見つかるといいですね。期待しております。osakawalker
返信削除ご無沙汰しています。
返信削除池田市からいい知らせでした。
大阪市に問い合わせしましたが、
「たかつ橋」の存在も分からず。
「大きな道標」も資料がなく。
大阪市としては全滅です。
後の頼りは、大阪市の橋について詳しい方からの返事がありません。返事待ちです。
大きな道標 文字が分かれば推察できますが、判読できませんでした。
奄美で道標表記の解読にチャレンジをお願いしています。
来年になりますが!
「南町のダンジリ」写真を手に入れました。
高津橋の件ですが、大阪市歌「たかつの宮の昔より代々 (よよ) の栄 (さかえ) を重ね来て民のかまどに立つ煙 賑いまさる大阪市~」にもありますように高津は歴史ある地名なので、多くあった橋柱の中から高津を選んで残した、とも考えられそうです。どういう理由かは分かりませんが現在は高津(こうづ)公園、高津(こうづ)高校等、「たかつ」とは読まずに「こうづ」と読んでいるようです。高津入堀川は一周したことがありまして、橋柱は見つけられませんでしたが、1つでも残っているとしたら、大変興味深いと思います。
返信削除ありがとうございました。
返信削除「こうづ橋」そうですね、大阪は歴史が古い
色々あるようで、最近はおおさかしないばかりです。
「高津入堀川」、環状線は時たま使いますが橋が残っている駅「芦原駅」にも、一度は行ってみたいです。