2010年3月16日火曜日

京への道   池田の道標から

以前に利用した資料を再度見ていますと、
池田の道標は歴史が古く寛文年間の物が3基存在し、資料の発行年数は不明であるが 38基で、 この時点で現存しないは6基が挙げられていました。  32基現存することになります。
調べると意外なことが分かりました。
それを挙げてみます。

要点は勝尾寺、京への道についてです。 それらの事が書かれている道標は
NO.01 石橋の道標  では すぐ 大坂・京  
NO.06 鉢塚の道標2 では すぐ 京・大坂  右みのをかちおじ   現存せず
N0.10 池田文庫   では 右 大坂みち京
NO.12 城山      では 左 京・みのを山、かち尾寺道    巡礼道

NO.33 池田小学校  では 左 高山 右 みのお・かちお寺

    
NO.01 石橋の道標    N0.10 池田文庫     NO.12 城山

池田では京へはこんな話があります。
「呉服商人が京都に仕入れをする時は与野街道で亀岡に出て船で下る」と
それが早かったみたいです。帰りは、淀川を船で大坂市八軒までは半日の行程であったようです。

道標でその一つには、みのお・かちお寺が同じ方向に挙げられている。 3基
その2では、大坂と京都が同じ方向に挙げられている。 3基  なっている。
行き先については、道標の立っている場所が問題ですが!

1.勝尾寺への道 は NO.06、NO.12、NO.33道標は
途中までみのおと同じ道を辿り、勝尾寺にはそのまま東進し新家から登るのであろう。
ことになります。     
NO。12の道標は大広寺前を通り、巡礼道を辿ります。 



箕面のこの道標で巡礼道に別れ 右に取り、萱野で西国街道に出会い、京へ

2.京への道 を考察すると・・・ 
N0.12の道標は 立っている位置から考えて、京への道は「西国街道」を利用して物であると考えられる。
しかし他の道標は NO.1、NO.06、NO10の3基は全て能勢街道筋にある道標です。
そして、
京都 大坂と同じ方向に表記されている。

例えば、N0.06 では、みのおと大坂・京は別ルートになっていますが、
表記は 「すぐ 大坂・京 」となって、京都に向かうには大阪と同じ方向になっている。

池田から「京への道」は全てではないが、道標からは西国街道を使うのでなく、
一旦豊中に入り、途中から「京への道」をとったことなる。
旅人は一般的に最短距離をとるものです。
それが なぜ、なぜでしょうか? 、西国街道を使わないのでしょうか! これも、疑問です。

池田市内の「京」への表示は 4基 豊中市内では「京」の表示のある道標は 5基 存在します。

豊中からの「京への道」は別項で扱っていますのでそちらをご覧下さい。







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