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記紀・万葉で読み解く古代難波

『なみはやの難波』http://www.occn.zaq.ne.jp/ringo-do/namihaya.htm

その① 
明 治 十 八 年 洪 水 碑 ・ 徳 庵 ( 淀 川 大 洪 水 紀 念 碑 )
  明 治 十 八 年 六 月 * 淫 雨 兼 旬 其 十 七 日 * 水 * 暴 漲 決 茨 田 郡 伊 加 賀 村 堤 防 其 汎 濫 * 湓 溢 延 及 茨 田 讃 良 東 成 三 郡 南 至 寐 屋 川 勢 * 浩 々 殆 乎 將 及 我 郡 部 内 於 是 假 修 築 堤 防 起 于 徳 庵 至 角 之 堂 凡 一 千 八 百 有 余 閒 以 備 * 不 虞 焉 其 二 十 八 日 劇 雨 疾 風 不 止 者 二 晝 夜 水 勢 益 壮 遂 決 寐 屋 川 堤 防 * 漂 沒 我 治 下 若 江 河 内 澀 川 三 郡 五 十 余 村 老 弱 號 呼 悲 惨 萬 状 不 可 * 方 物 郡 吏 警 官 為 設 桴 筏 備 舟 楫 * 拯 其 * 墊 溺 又 給 庶 艱 食 者 以 衣 糧 護 送 之 于 * 芝 菱 屋 東 新 田 高 井 田 八 尾 久 寶 寺 諸 村 * 梵 刹 * 黌 舎 全 活 者 一 萬 二 千 四 百 余 人 越 七 月 八 日 水 土 底 平 衆 庶 安 息 郡 邑 作 人 較 諸 享 和 文 化 之 水 災 其 水 量 超 加 者 五 尺 有 余 寸 云 今 * 禩 庶 民 罹 水 災 者
* 胥 議 曰 宮 家 保 護 之 恩 不 可 不 記 也 属 余 其 銘 辭 銘 曰
* 執 決 滔 水 * 泄 諸 尾 閭
* 救 墊 * 恤 溺 民 始 安 居

明 治 十 九 年 七 月 * 丹 北 高 安 大 縣 河 内 若 江 澀 川 郡 長 浦 橋 僩 た け し
( こ の 碑 文 は 、『 東 大 阪 の 石 碑 』 東 大 阪 市 史 編 纂 委 員 会 編 集 、 を 参 考 に し て 、 筆 者 が 現 地 調 査 を し て 判 読 を 試 み た も の で す 。)

口 語 訳 大 意 明 治 十 八 年 六 月 、 長 雨 が 十 日 も 続 き 、 同 月 十 七 日 に 淀 川 は い っ き に 水 か さ を 増 し 、 茨 田 ( ま っ た ) 郡 伊 加 賀 ( い か が ) 村 で 堤 防 が 決 壊 し た 。 た ち ま ち の う ち に 氾 濫 し た 水 は 溢 れ か え り 、 茨 田 ・ 讃 良 ( さ ら ら )・ 東 成 の 三 郡 に 及 び 、 南 は 寝 屋 川 ま で 至 っ た 。 あ た り 一 面 に 浩 々 と 水 が 広 が り 、 ほ と ん ど ま さ に わ が 郡 内 に ま で 及 ぼ う と し て い た 。 そ こ で 、 徳 庵 か ら 角 之 堂 ( す み の ど う ) ま で の 凡 そ 千 八 百 余 間 に 仮 設 の 堤 防 を 築 き 、 不 測 の 事 態 に 備 え た 。 同 月 二 十 八 日 に は 、 二 昼 夜 に わ た り 劇 雨 疾 風 が 止 ま ず 、 水 の 勢 い は ま す ま す 壮 ん に な り 、 つ い に 寝 屋 川 の 堤 防 が 決 壊 し て 、 若 江 ・ 河 内 ・ 渋 川 の 三 郡 五 十 余
村 は 水 没 し て し ま っ た 。 年 寄 や 子 供 は 大 声 を 上 げ て わ め き 叫 び 、 そ の 悲 惨 さ は 例 え よ う も な か っ た 。 郡 の 役 人 や 警 官 は 、 桴 ( は し け ) や 筏 ( い か だ ) を 作 り 、 舟 を 漕 い で 溺 れ て い る も の を 救 助 し 、 食 べ 物 に 困 っ て い る も の に は 、 衣 服 や 食 料 を 与 え て 、 こ れ を 芝 、 菱 屋 東 新 田 、 高 井 田 、 八 尾 、 久 宝 寺 の 諸 村 の 寺 院 や 校 舎 に 護 送 し た 。 生 存 者 は 、 一 万 二 千 四 百 余 人 で あ っ た 。 七 月 八 日 に な る と 、 水 没 し て い た 地 面 が 現 れ 、 人 々 は や っ と 安 息 し た 。 小 作 人 た ち は 、 享 和 ・ 文 化 の 水 害 と 比 較 し て 、 水 量 は そ れ よ り も 五 尺 あ ま り 高 か っ た と い い あ っ た 。 今 年 に な っ て 、 水 害 に 罹 災 し た 庶 民 た ち が 相 談 し あ っ て い う に は 、 宮 家 か ら 受 け た 保 護 の ご 恩 は 、 記 録 に 残 さ ず に は い ら れ な い と い う こ と に な り 、 余 は 記 念 碑 の 銘 辞 を 託 さ れ た 。 そ の 銘 に 曰 く 、

 執 決 滔 水 : 堤 防 を 決 壊 さ せ て 洪 水 を 排 水 し 、
 泄 諸 尾 閭 : 末 端 の 水 門 を す べ て 開 い て 排 水 し 、
救 墊 恤 溺 : 溺 れ た も の を 救 っ て 助 け て い た だ き 、
民 始 安 居 : 住 民 は は じ め て 安 居 す る こ と が で き た 。

* 淫 雨 ( イ ン ウ ): な が あ め 。
* 水 ( デ ン ス イ ): は 国 字 で 、 音 は 「 デ ン 」。『 周 礼 』 考 工 記 ・ 匠 人 の 註 に い う 、 「 奠 水 ( デ ン ス イ ) は 淳 ( た ま る ) 水 な り 」 と あ る こ と か ら 、 音 通 で 「 澱 ( デ ン )」 を 仮 借 し た も の で 水 は 「 澱 水 、」 す な わ ち 「 淀 川 」 を 指 す 。
* 暴 漲 ( ボ ウ チ ョ ウ ): い っ き に 水 か さ を 増 す こ と 。
* 湓 溢 ( ホ ン イ ツ ): 溢 れ か え る こ と 。
* 浩 々 ( コ ウ コ ウ ): 広 々 と し た 水 の さ ま 。
* 不 虞 ( フ グ ): 思 い が け な い 、 予 期 し な い こ と 。
 * 漂 沒 ( ヒ ョ ウ ボ ツ ): 「 漂 」 は 沈 む 、 沈 澱 す る の 意 。 漂 沒 は 沈 没 す る こ と 。
* 方 物 ( ホ ウ ブ ツ ): 識 別 す る こ と 。
 * 拯 ( シ ョ ウ ): す く う 、 た す け る 。「 救 」 と 同 義 。
* 墊 溺 ( テ ン デ キ ): 「 墊 」 は 溺 れ る こ と 。 洪 水 で 溺 れ 、 孤 立 し た 要 救 助 者 を 指 す 。
 * 芝 : 河 内 郡 芝 村 。 今 の 中 石 切 町 の あ た り 。
* 梵 刹 ( ボ ン サ ツ ): 寺 院 を い う 。
* 黌 舎 ( コ ウ シ ャ ): 学 校 の 校 舎 。
* 禩 ( シ ): 「 祀 」 の 異 体 字 。「 年 」 と 同 義 。 * 胥 議 ( シ ョ ギ ): 相 談 し て は か る こ と 。
* 執 決 ( シ ツ ケ ツ ): 堤 を 決 壊 さ せ る こ と 、 わ ざ と 切 り 。
* 泄 ( セ ツ ): も ら す 、 お し だ す こ と 。 本 文 は 洪 水 を 排 水 す る こ と を い う 。
 * 救 墊 ( キ ュ ウ テ ン ): 溺 れ た も の を 救 う こ と 「。 墊 」 は 溺 れ る 。
* 恤 溺 ( ジ ュ ツ デ キ ): 溺 れ た も の を あ わ れ み 施 し を 与 え る こ と 。
* 丹 北 ( タ ン ボ ク ): 丹 北 郡 。 今 の 東 住 吉 区 矢 田 、 平 野 区 瓜 破 、 松 原 市 の あ た り 。


その②
「 記 念 碑 」 ( 徳 庵 揚 水 機 場 記 念 碑 ) 大 阪 府 知 事 正 四 位 勲 二 等 池 田 清 篆
額漑 之 於 農 事 物 莫 急 焉 上 古 * 明 聖 鑿 池 溝 而 利 延 今 茲 河 内 之 野 北 有

 * 水 南 有 * 和 水 民 咸 頼 之 及 和 水 南 遷 也 中 河 之 地 田 園 雖 闢 灌 漑 難 給 設
水 利 組 合 以 濟 之 至 明 治 三 十 八 年 合 一 之 曰 十 六 個 井 路 普 通 水 利 組 合 以
 仰 給 於 水 而 北 河 諸 村 居 其 上 流 則 * 澤 之 所 波 及 皆 其 餘 耳 歳 少 旱 乎 給 水
不 到 * 紛 紜 不 絶 下 流 之 嘆 概 以 為 常 矣 大 正 十 二 年 夏 大 旱 管 理 者 中 河 内 郡 長 永 尾 吉 三 郎 君 焦 慮 立 謀 設 喞 筒 干 徳 庵 取 水 於 寝 屋 川 以 救 其 急 禾 得 活 矣 衆 知 其 可 以 爲 長 久 之 計 請 之 府 府 亦 審 其 利 也 用 費 五 万 造 揚 水 塲 於 此 地 十 三 年 八 月 朔 工 竣 其 年 全 國 大 旱 北 河 之 地 前 日 所 給 水 者 亦 不 免 枯 渇 而 此 地 増 収 二 万 石 其 効 亦 大 矣 後 年 更 分 水 於 傍 近 澤 之 所 及 在 初 則 八 百 餘 町 後 至 千 餘 町 而 猶 有 餘 潤 衆 皆 樂 之 請 記 以 垂 後 余 亦 慶 其 利 國 家 於 千 歳 也 爲 逑 其 意 云 昭 和 十 三 戊 寅 年 十 月 吉 日 浪 華 藤 澤 章 撰 浪 華 別 所 鼎 書

口 語 訳 ・ 大 意
農 業 に 於 い て は 、 灌 漑 ほ ど の 急 務 は な い 。 そ の む か し 明 聖 な る 天 皇 は 、 池 溝 を 開 鑿 し て 、 そ の 恩 恵 を 今 の 世 に も た ら し た 。 こ こ 河 内 平 野 に は 、 北 に は 淀 川 が あ り 、 南 に は 大 和 川 が あ り 、 人 々 は み な こ れ に 頼 っ て い た 。 大 和 川 が 南 に 付 け 替 え ら れ た こ と に よ り 、 中 河 内 の 田 圃 に は 、 灌 漑 用 水 が 開 か れ た が 、 水 の 供 給 が 困 難 で あ っ た 。 そ こ で 水 利 組 合 を 設 立 し て 水 を 斉 し く 分 配 し た 。 明 治 三 十 八 年 に こ れ ら を ひ と つ に ま と め て 、 十 六 箇 井 路 普 通 水 利 組 合 と 名 づ け 、 淀 川 か ら の 水 の 供 給 を 仰 い だ が 、 北 河 内 の 諸 村 が そ の 上 流 に あ る の で 、 水 の 恩 恵 が 波 及 し た の は そ の 余 り だ け だ っ た 。 旱 の 歳 は 少 な く な っ た が 、 給 水 が ( 隅 々 ま で ) 到 ら な い こ と か ら 紛 争 が 絶 え ず 、 下 流 の 歎 き は 常 の こ と と な っ た 。 大 正 十 二 年 夏 の 大 旱 で は 、 管 理 者 の 中 河 内 郡 長 の 永 尾 吉 三 郎 君 が 、 焦 慮 の す え に 徳 庵 に ポ ン プ を 設 置 し 、 寝 屋 川 か ら 取 水 し て 急 場 を 救 っ た の で 、 稲 は 生 き 返 る こ と が で き た 。 人 々 は 、 恒 久 的 な 対 策 を 立 て る よ う に 府 に 請 願 し た 。 府 は そ の 経 済 効 果 を 審 査 し て 、 五 万 円 を 費 や し て 揚 水 場 を 此 の 地 に 造 る こ と に な り 、 十 三 年 八 月 一 日 に 竣 工 し た 。 そ の 年 は 全 国 的 な 大 旱 で あ っ た が 、 北 河 内 の 地 で 、 以 前 給 水 を 受 け て い た と こ ろ は ま た 枯 渇 を 免 れ な か っ た が 、此 の 地 は 二 万 石 の 増 収 と な り 、そ の 効 果 は ま た ひ じ ょ う に 大 き な も の で あ っ た 。 後 年 、 更 に 近 在 の 農 地 に も 分 水 し て 、 は じ め は 八 百 余 町 で あ っ た ( 灌 漑 面 積 ) が 、 後 に は 千 余 町 に な っ て 、 し か も ま だ 余 力 を 残 し て い る 。 人 々 は 皆 よ ろ こ ん で 、 こ れ を 記 録 し て 後 々 に 伝 え る こ と を 請 う た 。 余 も ま た 国 家 に 千 歳 の 恩 恵 が も た ら さ れ た こ と を 慶 び 、 人 々 の 意 を あ つ め て 記 す こ と に し た 。

* 明 聖 ( メ イ セ イ ): 聡 明 な 天 皇 、 す な わ ち 仁 徳 天 皇 の 治 水 事 業 を 指 す 。
* 水 ( デ ン ス イ :) は 国 字 で 、 音 は 「 デ ン 『 」。 周 礼 』 考 工 記 ・ 匠 人 の 註 に い う 、「 奠 水 ( デ ン ス イ ) は 淳 ( た ま る ) 水 な り 」 と あ る こ と か ら 、 音 通 で 「 澱 ( デ ン )」 を 仮 借 し た も の で 水 は 「 澱 水 」 で あ り 、 す な わ ち 「 淀 川 」 を 指 す
 * 和 水 : 「 和 」 は 「 大 和 」 を 指 し 、「 和 水 」 は す な わ ち 「 大 和 川 」 を 指 す 。
* 澤 ( タ ク ): 「 恩 沢 」 の 略 。 恩 恵 を 受 け る こ と 。
* 紛 紜 ( フ ン ウ ン ): み だ れ る さ ま 。
* 嘆 概 ( タ ン ガ イ ): な げ き い た む 。
* 逑 ( キ ュ ウ ): あ つ め る


その③
 澱 河 洪 水 紀 念 碑 ( 桜 宮 神 社 境 内 )
 尭 水 湯 旱 天 之 降 災 國 家 代 有 故 雖 以 虞 代 垂 拱 之 治 不 能 俾 之 絶 無 乃 為 之 人 牧 者 安 得 不 竭 盡 心 力 拯 其 昏 墊 乎 哉 明 治 十 八 年 乙 酉 夏 六 月 大 雨 霖 澱 河 暴 漲 潰 決 茨 田 郡 伊 加 賀 邨 堤 防 漂 沒 攝 河 諸 郡 百 四 十 五 邨 水 勢 浩 々 極 目 無 際 盡 成 巨 浸 士 民 奔 竄 老 弱 號 呼 有 乗 屋 避 水 者 有 縁 木 求 救 者 走 者 泣 者 顛 者 蹶 者 悲 惨 満 状 不 可 名 状 災 地 多 属 大 坂 府 下 知 府 事 建 野 君 聞 警 蹶 起 曰 民 命 至 重 是 不 可 須 臾 舎 也 即 會 櫻 井 郡 長 與 土 木 課 員 議 決 堤 防 實 六 月 十 八 日 也 翌 日 午 牌 知 府 事 率 其 僚 属 數 人 馳 赴 網 島 權 設 支 局 便 宜 行 事 乃 興 鎮 臺 将 校 戳 力 發 役 夫 千 餘 人 決 野 田 邨 堤 防 以 殺 水 勢 其 攝 河 諸 郡 人 民 蘇 息 得 免 魚 腹 之 葬 者 未 嘗 不 由 此 偉 擧 也 然 而 前 害 已 除 後 患 繼 起 其 二 十 九 日 暴 風 甚 雨 水 量 益 加 如 驅 萬 馬 而 闘 百 雷 徑 潰 決 櫻 宮 堤 防 餘 勢 氾 濫 坌 入 市 街 市 街 沈 沒 槁 梁 悉 断 其 惨 有 轉 甚 前 日 者 也 知 府 事 豫 慮 小 民 罹 水 災 者 衣 食 或 不 給 為 予 糧 食 賑 救 之 於 是 市 井 人 民 海 外 紳 商 亦 爭 給 衣 糧 頒 財 物 靡 然 從 之 後 又 大 起 工 役 修 理 堤 防 以 救 助 貧 民 始 于 七 月 竣 于 九 月 災 後 窮 民 得 免 飢 餓 者 亦 未 嘗 不 由 其 力 也 抑 茨 田 東 成 二 郡 決 野 田 邨 堤 防 免 水 害 者 上 下 百 餘 年 間 前 後 三 次 一 為 享 和 二 年 距 今 八 十 五 年 矣 一 為 文 化 四 年 距 今 八 十 年 矣 獨 享 和 文 化 之 水 災 水 沒 徳 菴 堤 然 後 決 矣 今 者 則 先 其 未 沒 而 決 矣 是 以 保 其 民 命 免 水 害 其 功 効 歴 々 有 倍 於 前 日 者 也 若 夫 囙 循 不 決 不 獨 攝 河 諸 郡 被 水 害 其 所 波 及 有 不 可 測 者 也 後 之 値 澱 河 水 災 者 豈 可 不 鑑 而 誡 乎 哉 今 歳 闔 邨 人 民 罹 水 災 者 感 其 保 護 之 功 徳 尤 鉅 為 建 紀 念 碑 垂 烱 戒 乎 無 疆 云 銘 曰 大 水 来 嚢 邱 陵 微 伯 禹 人 咸 魚 漂 廬 舎 竃 産 鼃 水 上 床 十 尺 餘 乗 屋 者 縁 木 者 全 家 人 悉 樓 居 明 府 曰 人 命 重 決 堤 防 注 尾 閭 水 土 平 服 耒 耟 山 可 樵 水 可 漁 建 豐 碑 勒 功 績 仁 斯 民 者 誰 歟 明 治 十 九 年 丙 戌 春 三 月 建 野 府 知 事 篆 額 菊 池 純 撰 文 邨 田 浩 蔵 書 丹

口 語 訳 ・ 大 意
 尭 の 時 代 に は ( 九 年 の ) 水 害 が 、 湯 の 時 代 に は ( 七 年 の ) 旱 が あ っ た よ う に 、 天 は 歴 代 の 国 家 に 災 い を 降 り 下 ろ し て き た 。 故 に 、 舜 の 時 代 ( 虞 代 ) に は 垂 拱 の 治 と い う 平 穏 な 治 世 が あ っ た が 、 そ れ で も 自 然 災 害 を 絶 無 に さ せ る こ と は で き な か っ た 。 こ の た め 為 政 者 は 、 水 害 で 溺 れ た 被 災 者 た ち を 救 う こ と に 、 心 を 尽 く さ な け れ ば な ら な か っ た 。 明 治 十 八 年 (1885 ) 乙 酉 夏 六 月 に 、 大 雨 が 長 く 続 き 、 淀 川 が い っ き に 暴 漲 し 、 茨 田 郡 伊 加 賀 村 の 堤 防 が 決 壊 し て 、 摂 河 諸 郡 一 四 五 村 が 水 没 し た 。 水 勢 は 浩 々 と し て 、 見 渡 す 限 り 際 限 な く 水 面 が 広 が っ た 。 住 民 は 逃 げ ま ど い 、 子 供 や 年 寄 り は 叫 び 声 を 上 げ た 。 あ る 者 は 屋 根 の上 に 乗 っ て 水 を 避 け 、 あ る 者 は 木 に 登 っ て 救 い を 求 め 、 走 っ て 逃 げ る 者 、 泣 く 者 、 顛 ( た お れ る ) 者 、 蹶 ( つ ま ず く ) 者 、 そ の 悲 惨 な 様 は 、 こ と ば に す る こ と が で き な い ほ ど で あ っ た 。 被 災 地 の 多 く は 大 阪 府 に 属 し た 。 府 知 事 の 建 野 君 は 、 急 を 聞 い て た だ ち に 蹶 起 し て い う に は 、 人 命 は 何 者 よ り も 重 い 、 一 時 も お ろ そ か に は で き な い 。 た だ ち に 櫻 井 郡 長 や 土 木 課 員 ら と 会 っ て 、 堤 防 を 切 る 相 談 を し た 。 実 に 六 月 十 八 日 の こ と で あ る 。 翌 日 正 午 、 知 事 は 数 名 の 幹 部 職 員 を 率 い て 網 島 に 赴 き 、 現 場 支 局 を 起 ち 上 げ て 陣 頭 指 揮 を と っ た 。 す な わ ち 、 鎮 台 将 校 と 協 力 し て 、 役 夫 千 人 余 り を 動 員 し て 野 田 村 の 堤 防 を ( わ ざ と ) 切 り 、 洪 水 の 勢 い を 殺 し た 。 こ れ に よ っ て 摂 河 諸 郡 の 人 民 は 息 を 吹 き 返 し 、 魚 の 餌 食 と な る こ と を 免 れ た 。 未 だ 嘗 て 、 こ の よ う な 偉 業 が 為 さ れ た こ と は な か っ た 。 こ の よ う に し て 、 前 災 が 取 り 除 か れ た と 思 っ た ら 、 続 け ざ ま に 後 患 が や っ て き た 。 そ の 月 の 二 十 九 日 、 暴 風 が は げ し く 吹 き 、 水 か さ が 増 加 し た 。 ま る で 万 馬 が 駆 け 、 百 雷 が 轟 く よ う で あ っ た 。 見 る 間 に 桜 宮 堤 防 が 決 壊 し て 、 勢 い 余 っ て 氾 濫 し た 水 は 一 気 に 市 街 に 流 れ 込 ん だ 。 市 街 は ま た た く 間 に 水 に 沈 み 、 橋 梁 は 悉 く 分 断 さ れ 、 そ の 惨 状 は 以 前 を 上 回 っ た 。 知 事 は 、 水 害 に 罹 災 し た 民 が 、 衣 食 に 不 自 由 す る こ と を 予 想 し て 、 糧 食 を 用 意 し て こ れ を 救 援 し よ う と 考 え た 。 す る と 、 市 井 の 人 民 や 外 国 の 商 人 か ら 、 衣 服 や 食 糧 が 続 々 と 届 き 、 さ ら に 財 物 の 寄 付 も ど ん ど ん 寄 せ ら れ た 。 ま た 、 大 い に 工 事 を 起 こ し て 堤 防 を 修 理 し 、 こ れ に よ り 貧 民 を 救 済 し た 。 七 月 に は じ ま り 、 九 月 に 竣 工 し た 。 被 災 し て 困 窮 し た 民 が 飢 餓 を 免 れ た の も 、 ま た 、 未 だ 嘗 て な か っ た 力 に よ る も の で あ る 。 そ も そ も 茨 田 ・ 東 成 二 郡 が 、 野 田 村 堤 防 を 切 っ て 水 害 を 免 れ た の は 、 こ の 百 年 余 り の 間 で 前 後 三 回 あ る 。 一 つ は 享 和 二 年 (1802 ) で 、 今 を 去 る 八 十 五 年 前 で あ る 。 一 つ は 文 化 四 年 (1807 ) で 、 今 を 去 る 八 十 年 前 で あ る 。 た だ 、 享 和 ・ 文 化 の 水 害 は 、 徳 庵 堤 が 水 没 し た 後 に 堤 を 切 っ た が 、 今 回 は 先 に ( 徳 庵 堤 が ) 水 没 す る 前 に 堤 を 切 っ た 。 こ れ は 、 人 命 を 守 っ て 、 水 害 を 免 れ よ う と し た も の で 、 そ の 功 績 効 果 は 歴 然 で 、 以 前 の 倍 に あ た る も の で あ る 。 も し も ぐ ず ぐ ず と 躊 躇 っ て 堤 を 切 っ て い な か っ た な ら ば 、 摂 河 諸 郡 が 水 害 を 被 っ た だ け で は な く 、 そ れ に よ っ て 波 及 し た 被 害 は 計 り 知 れ な い 。 こ の 後 、 淀 川 の 水 害 に 直 面 し た と き に は 、 こ れ を 鑑 と し て 、 ま た 戒 め と す る べ き で あ ろ う 。 今 年 、 水 害 に 罹 災 し た 村 じ ゅ う す べ て の 人 民 は 、 保 護 し て い た だ い た 功 徳 に 感 謝 し て 、 こ こ に 紀 念 碑 を 作 り 、 あ き ら か な 戒 め と し て 、 末 永 く 後 世 に 伝 え る こ と と し た 。 銘 に 曰 く 。

大 水 が 丘 陵 ( 上 町 台 地 ) を 襲 い 、    伯 禹 に 非 ざ れ ば 人 は み な 溺 れ る
家 屋 は 水 に 沈 み 竈 は カ エ ル の 棲 み か と な る     水 は 床 上 十 尺 余 り
屋 根 に 乗 る 者 木 に 登 る 者            一 家 揃 っ て 楼 上 に 避 難 す る
府 知 事 曰 く 、 人 命 は 重 し     堤 防 を ( わ ざ と ) 切 り 、 樋 門 を 開 い て 排 水 し た
 水 が 引 い て 土 が 現 れ 、 す き で 耕 す こ と が で き      本 来 の 生 業 に 戻 り 、 ふ だ ん の 生 活 を 取 り 戻 す
顕 彰 の り っ ぱ な 碑 を 建 て て 功 績 を 刻 む       民 び と に 仁 を 垂 れ た の は 誰 だ っ た の か

 明 治 十 九 年 (1886 ) 丙 戌 春 三 月 建 野 府 知 事 篆 額 菊 池 純 撰 文 邨 田 浩 蔵 書 丹

虞代 ( グ ダ イ ): 中 国 の 神 話 時 代 の 五 帝 の ひ と り 舜 の 時 代 。
垂 拱 ( ス イ キ ョ ウ ) 之 治 : 袖 を 垂 れ 、 手 を 拱 く の 意 。 転 じ て 、 天 子 の 徳 に よ り 、 何 も し な く て も 、 天 下 が 平 穏 に 治 ま り 、 繁 栄 す る こ と 。
俾 ( ヒ ): さ せ る 、 せ し め る 。
人 牧 ( ジ ン ボ ク ): 民 を 養 い 国 を 治 め る こ と 。 人 牧 者 は 為 政 者 を い う 。
竭 盡 心 力 ( ケ ツ ジ ン シ ン リ キ ): 大 い に 心 を 尽 く す こ と 。
拯 ( ジ ョ ウ ): 救 う 、 た す け る 。
 昏 墊 ( コ ン テ ン ): 「 墊 」 は 溺 れ る 、「 昏 」 は く ら い こ と 。 す な わ ち 、 洪 水 の 中 で 孤 立 す る 被 災 者 を 指 す 。
霖 ( リ ン ): な が あ め 。
 暴 漲 ( ボ ウ チ ョ ウ ): 川 の 水 が い っ き に 増 水 す る こ と 。
 潰 決 ( カ イ ケ ツ ): 堤 防 が 決 壊 す る こ と 。
漂 沒 ( ヒ ョ ウ ボ ツ ): 「 漂 」 は 沈 む こ と 。 す な わ ち 、 沈 没 す る の 意 。
浩 々 ( コ ウ コ ウ ): 広 々 と し た さ ま 。
 極 目 無 際 盡 ( キ ョ ク モ ク ム サ イ ジ ン ): 見 渡 す 限 り 際 限 が な い さ ま 。
奔 竄 ( ホ ン ザ ン ): 逃 げ て か く れ る こ と 。
老 弱 ( ロ ウ ジ ャ ク ): 老 人 や 介 助 の 必 要 な 災 害 弱 者 を 指 す 。
 蹶 起 ( ケ ッ キ ): 勢 い よ く 立 ち 上 が る こ と 。
 須 臾 ( シ ュ ユ ): し ば ら く 、 少 し の 間 。
牛 牌 ( ゴ ハ イ ): 正 午 の こ と 。
僚 属 ( リ ョ ウ ゾ ク ): 幕 僚 、 幹 部 職 員 を 指 す 。
 權 設 ( ケ ン セ ツ ) 支 局 : 災 害 復 旧 の た め の 、 現 場 指 揮 所 を 起 ち 上 げ た こ と を い う 。
 戳 力 ( リ ク リ ョ ク ): 力 を 合 わ せ る こ と 。 協 力 。
 蘇 息 ( ソ ソ ク ): 蘇 生 す る 、 息 を 吹 き 返 す こ と 。
 魚 腹 之 葬 ( ギ ョ フ ク ノ ソ ウ ): 魚 の 餌 食 に な る こ と 。 溺 死 す る こ と を 指 す 。
坌 入 ( フ ン ニ ュ ウ ): 集 ま っ て 流 れ 入 る こ と 。 一 気 に 流 入 す る こ と 。
賑 救 ( シ ン キ ュ ウ ): 貧 者 や 被 災 者 に 施 し を 与 え る こ と 。
 靡 然 ( ビ ゼ ン ): 草 木 が 風 に な び く よ う に 、 な び き 従 う さ ま 。
窮 民 ( キ ュ ウ ミ ン ): 困 窮 し た 民 。 被 災 者 を 指 す 。
囙 循 ( イ ン ジ ュ ン ): ぐ ず ぐ ず す る 、 た め ら う 。「 囙 」 は 因 の 異 体 字 。「 循 」 は 巡 と 音 義 と も 同 じ 。
 闔 邨 ( コ ウ ソ ン ): 村 じ ゅ う す べ て 。「 闔 」 は す べ て の 意 。
 烱 戒 ( ケ イ カ イ ): あ き ら か な 戒 め 。
 無 疆 ( ム キ ョ ウ ): 果 て が な い こ と 。
来 襄 ( ラ イ ジ ョ ウ ): 本 文 で は 「 来 襲 」 と 同 じ 意 味 で 用 い た か
微 ( ビ ): 「 非 」 に 同 じ 。 な か り せ ば の 意 。
伯 禹 ( ハ ク ウ ): 夏 の 聖 王 禹 を い う 。
 漂 ( ヒ ョ ウ ): 沈 む こ と 。
 廬 舎 ( ロ シ ャ ): 家 屋 を 指 す 。
 産 鼃 ( サ ン ア ): 「 鼃 」 は カ エ ル 。 本 文 は 、 か ま ど が カ エ ル の 棲 み か に な っ た こ と を い う 。
樓 居 ( ロ ウ キ ョ ): 高 殿 に 住 む こ と 。 本 文 で は 、 屋 根 の 上 に 避 難 す る こ と を い う 。
明 府 ( メ イ フ ): 漢 代 の 太 守 、 唐 代 の 県 令 を い う 。 こ こ で は 、 府 知 事 の 建 野 を 指 す 。
尾 閭 ( ビ リ ョ ): 末 端 の 樋 門 を 指 す 。 本 文 で は 、 樋 門 を 開 い て 溢 れ 出 た 洪 水 を 注 ぎ 込 む こ と を い う 。
耒 耟 ( ラ イ キ ョ ): 「 耒 」「 耟 」 は 耜 ( す き ) と 同 義 。
山 可 樵 水 可 漁 : 山 に 樵 ( き こ る ) べ し 、 水 に 漁 ( す な ど る ) べ し 。 本 来 あ る べ き 生 業 に 戻 る こ と 。
豐 碑 ( ホ ウ ヒ ): 功 徳 を 讃 え る 大 き な 石 碑 を い う 。
勒 ( ロ ク ): 石 に 文 字 を 刻 む こ と 。
斯 民 ( シ ミ ン ): こ の 民 。 親 し み を こ め た 呼 び 方 。
書 丹 ( シ ョ タ ン ): 石 碑 の 碑 面 に 朱 筆 で 下 書 き す る こ と 。


その④
明 治 十 八 年 洪 水 碑 ・ 安 堂 
 明 治 十 八 年 六 月 十 七 日 * 水 * 暴 漲 * 潰 決 茨 田 郡 伊 加 賀 村 堤 防 水 勢 滔 々 延
* 漂 沒 攝 河 諸 郡 其 九 月 水 土 已 平 郡 村
* 底 績 建 野 知 府 事 * 賑 恤 * 民 庶 罹 於 災 害 者 大 起 土 功 修 築 大 和 川 堤 防 使 後 人 免 水 災 於 未 然 嗚 呼 知 府 事 之 * 深 仁 * 厚 澤 與 水 其 深 淺 豈 如 何 乎 哉 乃 記 其 實 以 爲 紀 念 碑 云
丹 北 高 安 大 縣 河 内 若 江 澁 川 郡 長 浦 橋 僩 た け し 撰 併 書

 口 語 訳 ・ 大 意 
 明 治 十 八 年 六 月 十 七 日 、淀 川 は い っ き に 水 か さ を 増 し 、茨 田 郡 伊 加 賀 村 で 堤 防 が 決 壊 し た 。 氾 濫 し た 水 は 滔 々 と 流 れ 出 し 、 摂 津 河 内 の 諸 郡 を 水 没 さ せ た 。 九 月 に な っ て よ う や く 洪 水 は 引 き 、水 底 に 沈 ん で い た 郡 村 は 地 上 現 れ た 。建 野 知 事 は 民 衆 を 憐 れ み 、 救 済 し た 。 罹 災 者 た ち は こ れ に 奮 い 立 っ て 、 お お い に 土 木 工 事 を 起 こ し 、大 和 川 堤 防 を 修 築 し 、後 世 の 人 々 が 水 害 に 遭 う の を 未 然 に 免 れ る よ う に し た 。 あ あ 、 知 事 の 仁 徳 の 深 さ 、 恩 沢 の 厚 さ は 、 淀 川 の 水 の 深 さ と 同 じ で は な か ろ う か 。 す な わ ち 、 そ の 事 実 を 以 っ て 紀 念 碑 に 記 す こ と に し た 。


*■水 :■ は 国 字 で 、 音 は 「 デ ン 『 」。 周 礼 』 考 工 記 ・ 匠 人 の 註 に い う 、「 奠 水 ( デ ン ス イ ) は 淳 ( た ま る ) 水 な り 」 と あ る こ と か ら 、 音 通 で 「 澱 ( デ ン )」 を 仮 借 し た も の で■ 水 は 「 澱 水 」 で あ り 、 す な わ ち 「 淀 川 」 を 指 す 。
* 暴 漲 ( ボ ウ チ ョ ウ ): い っ き に 水 か さ を 増 す こ と 。
* 潰 決 ( カ イ ケ ツ ): 壊 し 破 る こ と 。 堤 が 決 壊 す る こ と 。
* 漂 沒 ( ヒ ョ ウ ボ ツ ): 「 漂 」 は 沈 む 、 沈 殿 す る の 意 。 漂 沒 は 沈 没 す る こ と 。
* 底 績 ( テ イ セ キ ): 「 底 」 は と ど ま る こ と 。 す な わ ち 功 績 を 後 世 に と ど め る こ と 。 本 文 は 、「 底 ( 地 面 ) が 現 れ る 」 と い う 意 味 で 用 い ら れ て い る と 解 釈 さ れ る 。
* 賑 恤 ( シ ン ジ ュ ツ ): 施 し 恵 む こ と 。 被 災 者 を あ わ れ ん で 金 品 を 施 す こ と 。
* 民 庶 ( ミ ン シ ョ ): 「 庶 民 」 と 同 義 、 民 衆 を い う 。
 * 深 仁 ( シ ン ジ ン ): 仁 徳 の 深 い こ と 。
* 厚 澤 ( コ ウ タ ク ): 恩 沢 の 厚 い こ と


その⑤
墾 田 紀 功 碑 ( 鴻 池 新 田 会 所 朝 日 社 境 内 )
 「 表 面 」
 大 阪 府 知 事 従 五 位 建 野 郷 三 篆 額 従 五 位 勲 六 等 土 居 通 夫 撰 并 書
  畿 内 之 地 * 腴 而 沃 其 * 圮 于 水 以 * 塉 者 獨 為 河 州 州 背 淀 川 左 * 層 ■和 州 之 水 過 * 龜 瀬 而 下 曰 大 和 川 至 柏 原 與 石 川 合 而 北 * 紆 回 數 里 至 若 江 郡 乃 西 經 攝 之 野 會 淀 達 海 是 以 流 縵 砂 * 淤 * 霖 潦 則 必 壊 堤 衝 村 民 苦 其 害 元 禄 五 年 官 議 改 水 道 自 安 宿 大 縣 二 郡 * 畍 直 西 到 堺 浦 入 海 害 即 止 矣 而 * 滙 澤 之 存 者 二 存 讃 良 郡 曰 深 野 在 若 江 郡 曰 新 開 皆 大 數 里 官 下 令 募 能 * 堙 者 於 是 我 * 宗 誠 翁 往 * 相 新 開 池 形 廼 奮 請 于 官 獻 金 萬 餘 以 買 其 地 乃 募 小 民 授 之 * 畚 挶 與 之 * 錢 鎛 以 堙 以 * 畬 三 年 而 成 得 田 二 百 餘 町 實 寳 永 四 年 成 翁 諱 宗 利 姓 山 中 鹿 之 助 幸 盛 之 胤 翁 祖 父 正 成 君 自 * 鴻 池 村 来 始 家 于 大 阪 内 久 寳 寺 坊 後 以 鴻 池 為 氏 至 翁 移 居 于 今 橋 坊 為 人 篤 實 温 厚 謙 而 愛 人 倹 而 能 勤 其 創 功 也 身 自 * 督 役 田 距 家 二 里 日 必 往 視 不 避 風 雨 人 稱 其 勤 矣 功 之 成 也 * 録 役 夫 以 為 * 佃 * 廬 之 衣 之 備 耕 具 以 與 之 人 服 其 惠 矣 凡 佃 戸 與 地 主 * 概 爭 其 權 而 翁 之 所 役 則 * 家 奴 耳 故 心 服 而 安 焉 人 推 其 制 矣 * 蒹 葭 沮 洳 之 塲 化 為 * 畎 畝 * 禾 稼 穣 々 歡 聲 滿 野 人 呼 為 鴻 池 新 田 云 翁 以 元 文 元 年 丙 辰 七 月 歿 距 今 百 有 五 十 年 今 主 人 幸 方 君 實 翁 八 世 孫 也 余 * 客 歳 受 其 嘱 来 議 家 事 乃 與 君 及 * 小 宗 諸 老 * 老 幹 等 議 曰 事 功 顯 于 近 而 * 泯 于 遠 者 多 矣 以 事 之 不 公 也 久 而 益 顯 者 其 利 益 施 于 國 也 若 翁 者 豈 不 然 乎 方 今 ( 三 字 空 き ) 聖 明 隆 化 之 日 四 方 志 士 竭 力 于 國 益 者 或 来 取 法 乎 盍 紀 功 以 昭 之 且 報 * 祖 澤 乎 衆 皆 曰 然 乃 序 而 繋 之 銘 曰 河 州 河 修 沮 洳 未 塞 藪 澤 蒹 葭 民 艱 於 食 維 翁 一 奮 辛 苦 致 力 擲 金 * 鉅 万 良 田 * 茲 殖 非 以 * 營 私 實 益 邦 國 維 翁 之 功 偉 矣 * 巍 然 功 之 所 基 維 倹 與 勤 追 紀 事 功 * 貞 珉 之 * 鐫 以 報 * 治 化 以 * 勒 祖 恩 以 警 孫 子 侯 萬 斯 年

  明 治 十 八 年 乙 酉 七 月 鴻 池 善 次 郎 幸 方 建 之

 「 裏 面 」 小 宗      山 中 富 之 助 幸 備    山 中 鶴 之 助 幸 貞
        老 幹      内 山 治 郎 兵 衛 宣 宴  永 田 彦 作 春 保  山 田 伝 兵 衛 道 登

 去 夏 霖 潦 茨 田 郡 伊 加 賀 邨 堤 壊 實 六 月 十 八 日 也 * 北 河 三 郡 皆 圮 當 此 時 新 田 諸 邨 民 爭 築 * 土 豚 以 免 其 害 而 * 淫 雨 益 甚 三 十 日 堤 又 大 壊 諸 邨 遂 皆 沒 乃 使 佃 戸 避 于 日 下 * 大 龍 寺 人 口 六 百 五 十 七 月 十 五 日 始 歸 家 其 在 寺 也 田 主 日 與 米 人 五 合 歸 家 也 猶 與 三 旬 又 出 金 千 餘 圓 救 之 為 戸 一 百 餘 葢 沿 享 和 * 二 季 例 也 是 變 也 潦 水 * 瀰 漫 方 五 里 * 昏 墊 之 民 數 萬 而 新 田 諸 邨 免 于 艱 苦 者 豈 不 亦 田 主 祖 先 之 餘 澤 乎 哉 安 得 不 表 之 乃 追 録 并 以 存 之

明 治 十 九 年 丙 戌 三 月      土 居 通 夫 識

口 語 訳 ・ 大 意
 「 表 面 」
  畿 内 の 地 は 肥 沃 で あ る が 、 河 内 地 方 だ け は 、 水 害 の た め に 土 地 が 痩 せ て い た 。 河 内 地 方 は 淀 川 を 背 に し て 、 左 手 に は( 生 駒 山 地 の ) 嶺 々 が 連 な っ て い る 。 大 和 の 水 が 亀 の 瀬 岩 を 過 ぎ て 下 っ て く る の を 大 和 川 と い う 。 柏 原 で 石 川 と 合 流 し て 、 北 に 蛇 行 し な が ら 流 れ る こ と 数 里 で 、 若 江 郡 に 至 る と 西 に 転 じ 、 摂 津 の 野 を 経 て 、 淀 川 と 合 流 し て 海 に 達 す る 。 こ の 川 は 流 れ が 緩 や か な た め 砂 が 堆 積 し 、 大 雨 の た び に 必 ず 堤 を 破 っ て 村 を 襲 う の で 、 住 民 は そ の 害 に 難 渋 し た 。 元 禄 五 年 (1692 )、 お 上 の 計 ら い で 河 道 を 改 め る こ と に な り 、 安 宿 ( あ す か ) 郡 と 大 県 ( お お あ が た ) 郡 の 界 か ら 、 直 接 西 に 転 じ て 堺 の 浦 で 海 に 排 水 す る よ う に し た と こ ろ 、 水 害 は 止 ん だ 。 こ う し て ( 河 内 に は )、 低 湿 地 の 水 が 集 ま る 所 が 二 ヶ 所 出 現 し た 。 讃 良 郡 に あ る の を 深 野 池 と い い 、 若 江 郡 に あ る の を 新 開 池 と い う 。 い ず れ も 広 さ 数 里 で あ っ た 。 お 上 は こ れ を 埋 め て 農 地 に す る も の を 募 っ た 。そ こ で 我 が 宗 誠 翁 は 、新 開 池 に 往 き 地 相 を 見 た と こ ろ 、た ち ま ち 奮 起 し て お 上 に 願 い 出 て 、 一 万 両 あ ま り を 投 じ て そ の 地 を 購 入 し た 。 そ し て 人 を 募 集 し て 、 こ れ に も っ こ を 授 け 、 す き く わ を 与 え て 、 干 拓 工 事 を 行 っ た 。 さ ら に 、 土 地 を 養 生 す る こ と 三 年 で 、 二 百 町 歩 あ ま り の 水 田 を 得 る こ と が で き た 。 じ つ に 、 宝 永 四 年 (1707 ) の こ と で あ る 。 翁 は 諱 を 宗 利 、 姓 は 山 中 、 鹿 之 助 幸 盛 の 後 胤 で あ る 。 翁 の 祖 父 正 成 君 は 、 鴻 池 村 か ら 出 て 来 て 、 は じ め て 大 坂 の 久 宝 寺 坊 に 家 を 構 え た の で 、 後 に 鴻 池 を 氏 と す る よ う に な っ た 。 翁 の 代 に 今 橋 坊 に 居 を 移 し た 。 翁 の 人 と な り は 篤 実 温 厚 で 、 謙 虚 に し て 人 を 愛 し 、 倹 約 に し て よ く 勤 ん だ 。 干 拓 事 業 が 創 ま る と 、 自 ら 工 事 を 監 督 し た 。 田 は 家 か ら 二 里 離 れ て い た が 、 毎 日 必 ず 往 っ て 視 察 し 、 風 雨 が 激 し く と も 避 け る こ と は な か っ た 。 人 々 は 、 そ の は た ら き に よ っ て 工 事 が 完 成 し た の だ と 称 え た 。( 工 事 が 終 わ る と ) 工 事 人 足 を 小 作 人 に 雇 い 入 れ 、 こ れ に 小 屋 を あ て が い 、 衣 服 を 与 え 、 農 具 を 備 え て こ れ ら に 與 え た 。人 々 は そ の 恩 恵 に 感 服 し た 。お よ そ 小 作 人 と 地 主 は 、互 い に 権 を 争 い 合 う も の だ が 、 翁 が 使 役 し た の は 家 の 使 用 人 だ け で 、 そ の た め ( 小 作 人 は ) 安 心 し て 心 服 し た 。 人 々 は そ の 制 度 を 推 賞 し た 。 ヨ シ や ア シ の 生 い 茂 る 低 湿 地 が 、 水 路 や 畔 が 整 備 さ れ た 水 田 に 変 貌 し 、 稲 も た わ わ に 実 り 、 歓 声 が 野 に 満 ち た 。 人 呼 ん で 、 鴻 池 新 田 と い う 。 翁 は 元 文 元 年 (1736 ) 丙 辰 七 月 に 歿 し た 。 今 を 去 る 百 五 十 年 前 の こ と で あ る 。 今 の 当 主 幸 方 君 は 、 じ つ に 翁 の 八 世 の 孫 で あ る 。 余 は 、 過 ぐ る 年 に 嘱 託 を 受 け 、 当 家 に 来 て 家 事 を 議 る こ と と な っ た 。 そ こ で ( 余 は )、 当 主 や 小 宗 、 老 幹 ら と 相 談 し て 「、 事 業 の 功 績 は 、 近 い う ち に は 顕 か で あ る が 、 遠 く な る と 途 絶 え て 伝 わ ら な い こ と が 多 い 。 そ の 事 績 を 広 く 公 に し な い か ら で あ る 。 長 年 に わ た り そ の 益 が 顕 著 な も の は 、 そ の 利 益 を 国 に 施 し て い る か ら で あ る 。 翁 は ま さ に 、 そ の よ う な 人 物 で は な か ろ う か 。 今 の 世 は 、( 三 字 空 き ) 聖 明 ( な 天 皇 に よ り )、 ま す ま す 発 展 を 遂 げ て い る 。 世 の 中 の 志 士 で 、 国 益 の た め に 力 を 尽 く し て い る も の は 、来 た り て 手 本 と す る で あ ろ う 。ど う し て そ の 業 績 を 昭 か に し て 、 祖 先 の 恩 沢 に 報 わ ず に い ら れ よ う か 」 と 提 案 し た と こ ろ 、 み な 一 致 し て 「 そ の と お り だ 」 と な り 、 こ の よ う に 序 文 を 記 し た 。 銘 に 曰 う 。 河 内 の 河 川 改 修 は 、 低 湿 地 が 未 だ に 手 付 か ず の ま ま で あ っ た 。 ア シ や ヨ シ の 生 い 茂 る 沼 沢 の 地 で 、 民 は 食 べ る こ と に も 難 儀 し た 。 こ れ に 奮 起 し た 翁 は 、 辛 苦 と 努 力 を 尽 く し た。
巨 万 の 金 を 擲 ( な げ う ) ち 、 良 田 を 増 や し た 。 こ れ は 私 利 私 欲 の 為 で は な く 、 国 家 の 実 益 の 為 で あ っ た 。 翁 の 功 績 は 偉 大 で 巍 然 と し て い る 功 績 の 基 と な っ た の は 、 倹 約 と 勤 勉 で あ っ た 。 事 業 の 功 績 を 追 紀 し て 、 よ き 石 に こ れ を 刻 み 、 以 っ て 民 を 治 め て 教 化 し た こ と に 報 い 、 以 っ て 先 祖 の 恩 を 石 に 刻 む 。 以 っ て 子 孫 の た め の 警 句 と し 、 こ こ に 萬 年 に 伝 え ん 。

明 治 十 八 年 乙 酉 七 月 鴻 池 善 次 郎 幸 方 之 を 建 て る

* 腴 ( ユ ): 肥 え る 。
* 圮 ( ヒ ): こ ぼ つ 、 や ぶ る 。
* 塉 ( セ キ ): や せ つ ち 、 痩 せ た 土 地 。
* 層 嶺 ( ソ ウ レ イ ): 連 な る 嶺 々 、 生 駒 山 地 を 指 す 。
* 龜 瀬 : 大 和 川 の 難 所 で あ る 「 亀 の 瀬 岩 」 を 指 す 。
 * 紆 回 ( ウ カ イ ): 紆 余 曲 折 し て 、 く ね く ね と 蛇 行 す る こ と 。
 * 淤 ( オ ): と ど こ お る こ と 。「 砂 淤 」 は 土 砂 が 滞 っ て 堆 積 す る こ と 。
 * 霖 潦 ( リ ン ロ ウ ): 「 霖 」 は 長 雨 、「 潦 」 は 大 雨 。
* 畍 ( カ イ ): 「 界 」 の 異 体 字 。
* 滙 澤 ( ワ イ タ ク ): 「 滙 」 は 集 ま る の 意 。
* 堙 ( イ ン ): 「 堙 」 は 「 塞 」 と 同 義 、 ふ さ ぐ こ と 。 土 を 盛 っ て 埋 め る こ と 。
* 宗 誠 ( ソ ウ セ イ ): 三 代 鴻 池 善 右 衛 門 宗 利 。 寛 文 三 年 (1667 ) ~ 元 文 元 年 (1736 )。
* 相 ( ソ ウ ): み る こ と 。 本 文 は 、 土 地 の 風 水 吉 凶 を 観 相 す る こ と を い う 。
* 畚 挶 ( ホ ン キ ョ ク ): 「 畚 」「 挶 」 は 同 義 語 。 い ず れ も 、 ふ ご 、 も っ こ を い う 。 * 錢 鏄 ( セ ン ハ ク ): 「 錢 」 は 直 柄 の す き 。「 鏄 ( ハ ク )」 は 曲 柄 の く わ 。
* 畬 ( ヨ ): 開 墾 し た 田 を 養 生 熟 成 す る こ と 。 ま た は 開 墾 し て 三 年 経 っ た 田 を い う 。 本 文 で は 、 干 拓 造 成 工 事 が 完 了 し て も 、 三 年 間 土 地 を 養 生 し な け れ ば 、 耕 作 に 適 し た 農 地 に な ら な か っ た こ と を い う 。


 * 鴻 池 村 : 摂 津 国 川 辺 郡 鴻 池 村 、 今 の 兵 庫 県 伊 丹 市 。
* 督 役 ( ト ク エ キ ): 工 事 を 監 督 す る こ と 。「 役 」 は 新 田 の 干 拓 工 事 を 指 す 。 * 録 ( ロ ク ): 雇 用 す る 、 採 用 す る こ と 。
* 佃 ( デ ン ): 小 作 人 を い う
* 廬 ( リ ョ ): 小 屋 を い う


その⑥ 赤井堤防碑   淀川堤防東斜面・さだポンプ場付近にある赤井堤記念碑に
 赤 井 堤 紀 念 碑
明 治 十 有 八 年 夏 六 月 霖 雨 彌 月 澱 川 暴 漲 其 十 七 日 茨 田 郡 伊 加 賀 村 堤 防 潰 決 者 八 十 餘 歩 茨 田 讃 良 東 成 三 郡 盡 成 巨 浸 漂 沒 盧 舎 父 子 老 弱 號 叫 奔 竄 不 知 所 措 初 堤 防 之 潰 也 府 知 事 建 野 君 率 土 木 課 員 馳 視 焉 親 勵 土 人 奔 走 指 揮 二 十 九 日 雨 又 甚 七 月 一 日 風 益 加 焉 防 禦 垂 成 又 壊 者 四 十 餘 歩 徑 氾 濫 河 内 若 江 澁 川 住 吉 諸 郡 延 及 大 坂 水 上 屋 者 丈 餘 至 夜 風 雨 益 暴 水 量 益 加 人 畜 悲 鳴 其 惨 状 不 可 勝 道 於 是 官 發 輕 舸 救 漂 溺 又 設 盧 舎 給 糧 食 其 状 以 聞 勅 賜 金 三 千 圓 内 外 紳 商 亦 爭 寄 贈 金 穀 賑 救 小 民 府 知 事 又 大 募 役 夫 修 理 堤 防 三 閲 月 竣 功 木 屋 村 之 北 有 堤 防 曰 赤 井 亦 潰 者 二 百 餘 歩 流 失 家 屋 者 三 十 五 煙 良 田 滔 為 沙 淤 今 歳 丙 戌 之 春 修 之 始 於 一 月 竣 於 四 月 其 西 畔 五 十 歩 係 于 鞆 呂 岐 荘 六 村 之 修 築 其 東 若 干 歩 木 屋 村 修 之 而 鞆 呂 岐 荘 五 村 亦 補 之 九 箇 八 箇 大 庭 門 真 五 箇 之 諸 荘 亦 出 七 百 金 助 之 堤 之 西 畔 原 有 水 道 以 其 頽 廢 難 修 別 疏 鑿 之 先 此 郡 吏 佐 治 則 行 戸 長 西 尾 八 郎 次 督 課 工 役 鼓 舞 窮 民 是 以 窮 民 得 業 省 費 頗 鉅 抑 赤 井 堤 在 茨 田 郡 之 北 郡 南 諸 荘 安 危 所 繋 然 灾 後 窮 民 盡 失 其 資 産 修 之 則 費 不 能 支 不 修 之 則 其 害 有 不 可 測 者 我 郡 長 俣 野 君 大 憂 之 乃 諭 郡 南 諸 荘 補 充 其 費 郡 書 記 脇 坂 正 太 郎 戸 長 西 邨 吉 三 郎 與 有 力 焉 又 貸 與 若 干 金 以 助 修 築 盖 其 所 費 殆 萬 金 云 嗚 呼 修 理 堤 防 賑 救 窮 民 雖 清 世 餘 澤 令 之 然 抑 自 非 府 知 事 赤 子 視 此 民 之 厚 安 得 至 此 乎 哉 乃 與 同 志 某 某 胥 議 為 建 紀 念 碑 傅 其 深 仁 厚 澤 於 無 彊 云 銘 曰 水 旱 疾 疫 必 祷 鬼 神 能 濟 之 者 弗 負 仁 人 維 斯 明 府 慈 而 能 仁 周 窮 恤 溺 澤 在 四 民 明 治 十 九 年 七 月 大 阪 府 知 事 從 五 位 建 野 郷 三 篆 額 西 尾 徳 太 郎 撰

口 語 訳 ・ 大 意
明 治 十 八 年 (1885 ) 夏 六 月 、 霖 雨 * が ひ と 月 も 続 き 、 淀 川 の 水 位 が い っ き に 上 昇 し た 。 同 十 七 日 、 茨 田 郡 伊 加 賀 村 で 八 十 歩 ( 約144 m ) 余 り に わ た っ て 堤 防 が 決 壊 し 、茨 田 、讃 良 、東 成 三 郡 は 悉 く 巨 大 な 湖 と な っ た 。家 屋 は 水 に 沈 み 、父 子 や 年 寄 り 弱 者 は 叫 び 声 を 上 げ て 逃 げ ま ど い 、 堤 防 が 決 壊 し た 当 初 は 、 な す す べ も 知 ら な か っ た 。 大 阪 府 知 事 建 野 君 は 、 土 木 課 員 を 率 い て 視 察 に 駆 け つ け 、 自 ら 地 元 民 を 励 ま し て 指 揮 に 奔 走 し た 。 二 十 九 日 に は 雨 が 再 び は げ し く 降 り 、 七 月 一 日 に は 風 が 益 々 強 ま っ た 。 水 防 の 備 え が ま さ に 完 成 し よ う と し て い た と き に 、 再 び 四 十 歩 ( 約72 m ) 余 り が 壊 れ 、 た ち ど こ ろ に 河 内 、 若 江 、 渋 川 、 住 吉 の 諸 郡 は 氾 濫 し た 水 に 浸 か り 、 大 坂 ( 市 街 ) に も 及 ん だ 。 水 は 屋 根 の 上 一 丈 ( 約 3m ) 余 り の と こ ろ も あ っ た 。 夜 に な る と 風 雨 は ま す ま す は げ し く な り 、 水 か さ は さ ら に 増 加 し た 。 人 畜 は 悲 鳴 を 上 げ て ( 助 け を 求 め )、 そ の 惨 状 は こ と ば に 尽 く し が た か っ た 。 そ こ で 、 官 は 軽 舸 * を 出 し て 溺 れ た も の を 救 助 し 、 盧 舎 * を 設 け て 炊 き 出 し を 行 っ た 。 そ の 状 況 は 次 の よ う な も の で あ っ た 。 勅 賜 の 見 舞 金 三 千 円 が 下 さ れ 、 内 外 の 紳 商 か ら は 金 や 穀 物 が 次 々 と 届 き 、 被 災 者 を 見 舞 っ た 。 府 知 事 は ま た 、 大 い に 役 夫 を 募 集 し て 堤 防 を 修 理 し 、 三 ヶ 月 で 竣 功 し た 。 木 屋 村 の 北 に 赤 井 ( 堤 ) と い う 堤 防 が あ っ た が 、 こ こ も 二 百 歩 ( 約360 m ) 余 り が 決 壊 し た 。 流 失 し た 家 屋 は 三 十 五 戸 、 良 田 は 押 し 流 さ れ て 沙 淤 * と な っ た 。 こ の 年 丙 戌 (1886 ) の 春 に ( 赤 井 ) 堤 を 修 理 し た 。 一 月 に 始 ま り 、 四 月 に 竣 工 し た 。 そ の 西 側 五 十 歩 ( 約90m ) は 、 鞆 呂 岐 荘 六 村 の 受 け 持 ち で 堤 を 修 築 し た 。 そ の 東 側 若 干 歩 (10m ほ ど ) は 、 木 屋 村 が 堤 を 修 築 し た 。 ま た 、 鞆 呂 岐 荘 五 村 は 堤 を 補 修 し た 。 九 箇 、 八 箇 、 大 庭 、 門 真 、 五 箇 の 諸 荘 は 、 金 七 百 円 を 拠 出 し て こ れ を 助 け た 。 堤 の 西 側 に は 、 も と も と 水 路 が あ っ た が 、 荒 れ 果 て て 修 理 が 難 し か っ た の で 、 別 に 水 路 を 掘 っ た 。 先 ず 郡 吏 の 佐 治 則 之 が 工 事 を 監 督 し て 被 災 者 を 鼓 舞 し 、 戸 長 西 尾 八 郎 が こ れ を 引 き 次 い だ 。 こ れ に よ り 被 災 者 は 仕 事 を 得 る こ と が で き 、( 同 時 に ) 工 費 を 大 き く 節 約 す る こ と が で き た 。 そ も そ も 赤 井 堤 は 茨 田 郡 の 北 に あ り 、 郡 南 の 諸 荘 の 安 全 と 密 接 に 繋 が っ て い た 。 被 災 者 た ち は こ と ご と く そ の 資 産 を 失 っ て い た の で 、 水 災 の 後 に 堤 を 修 理 す る に あ た っ て 、 そ の 費 用 を 支 払 う こ と が で き な か っ た 。 堤 を 修 理 し な け れ ば 、 そ の 被 害 は 測 り 知 れ な い も の が あ っ た 。 我 が 郡 長 俣 野 君 は こ れ を 大 い に 憂 い 、 た だ ち に 郡 南 の 諸 荘 を 諭 し て 、 そ の 費 用 を 補 充 さ せ た 。 郡 書 記 脇 坂 正 太 郎 、 戸 長 西 邨 吉 三 郎 の 尽 力 も あ っ た 。 ま た 、 若 干 の 金 を 貸 与 し て 、 堤 を 修 築 す る の を 助 け た 。 お そ ら く ( 堤 の 修 築 に ) か か っ た 費 用 ( の 総 額 ) は 、 殆 ど 一 万 円 ほ ど で あ っ た と い う 。 あ あ ! 堤 防 を 修 理 し て 被 災 者 を 賑 救 * す る 。( 水 害 の な い ) 太 平 の 世 と い え ど も 、 そ の 恩 恵 は 歴 然 と し て い る 。 そ も そ も 私 は 府 知 事 で は な い が 、 国 民 が こ の 堤 を 見 て 、 民 衆 の ( 知 事 に 対 す る ) 厚 意 を ど の よ う に し て 知 り 得 る だ ろ う か と 考 え た 。 そ こ で 同 志 た ち と 相 談 し て 、 紀 念 碑 を 建 て て そ の 深 仁 厚 沢 * を 末 永 く 伝 え る こ と に し た 。

銘 に 曰 く 。
水 害 や 旱 、 疫 病 に は 、 必 ず 鬼 神 に 祷 る
よ く こ れ を 濟 ( す く う ) も の は 仁 を 負 う 人 に あ ら ず
た だ 、 こ の 府 知 事 は 慈 悲 深 く 仁 政 を 行 い
あ ま ね く 水 害 に 被 災 し た 四 民 に 救 い の 手 を 差 し 伸 べ た

霖 雨 ( リ ン ウ ): な が あ め 。
 暴 漲 ( ボ ウ チ ョ ウ ): 川 の 水 が い っ き に 増 水 す る こ と 。
潰 決 ( カ イ ケ ツ ): 堤 防 が 決 壊 す る こ と 。
 巨 浸 ( キ ョ シ ン ): 巨 大 な 浸 水 域 。
漂 沒 ( ヒ ョ ウ ボ ツ ): 「 漂 」 は 沈 む こ と 。 す な わ ち 、 沈 没 す る の 意 。
老 弱 ( ロ ウ ジ ャ ク ): 老 人 や 介 助 の 必 要 な 災 害 弱 者 を 指 す 。
 奔 竄 ( ホ ン ザ ン ): 逃 げ て か く れ る こ と 。
防 禦 ( ボ ウ ギ ョ ): 水 防 の 備 え 。
垂 成 ( ス イ セ イ ): 「 垂 」 は ま も な く 、 ま さ に ~ し よ う と し た と き 、 の 意 。
輕 舸 ( ケ イ カ ): 小 型 の 汽 船 を い う 。「 舸 」 は ボ ー ト 。
 盧 舎 ( ロ シ ャ ): こ の 場 合 は 仮 設 の 小 屋 を い う 。
 賑 救 ( シ ン キ ュ ウ ): 貧 者 や 被 災 者 に 施 し を 与 え る こ と 。
滔 ( ト ウ ): 水 が み な ぎ り 広 が る 。 こ の 場 合 は 良 田 が 押 し 流 さ れ る こ と 。
 沙 淤 ( サ オ ): 土 砂 の 堆 積 を 指 す 。
窮 民 ( キ ュ ウ ミ ン ): 困 窮 し た 民 。 被 災 者 を 指 す 。
清 世 ( セ イ セ イ ): 穏 や か に 治 ま っ て い る 世 。 太 平 の 世 。
 餘 澤 ( ヨ タ ク ): 先 人 の 残 し た 恩 恵 。
赤 子 ( セ キ シ ): ( 天 皇 か ら み た ) 一 般 国 民 。 胥 議 ( シ ョ ギ ): 相 談 す る こ と 。 深 仁 厚 澤 ( シ ン ジ ン コ ウ タ ク ): 深 い 仁 義 と 厚 い 恩 恵 。
無 彊 ( ム キ ョ ウ ): 果 て し が な い こ と 。
 明 府 ( メ イ フ ): 漢 代 の 太 守 、 唐 代 の 県 令 を い う 。 こ こ で は 、 府 知 事 の 建 野 を 指 す 。
窮 恤 ( キ ュ ウ ジ ュ ツ ): 被 災 者 を あ わ れ み 救 済 す る こ と 。
 溺 弱 ( デ キ ジ ャ ク ): 水 害 の 被 災 者 を 指 す 。

別口語
 『明治18年夏強雨の中、淀川の水かさが一気に増し、
17日には茨田群伊賀村の堤防80歩余が決壊し
茨田、讃良、東成の3群はことごとく浸水、民家は水没、
そのため父子、老人は号叫し、始めは堤防の決壊したこも知らなかった。
府知事建野君が土木課員を率いて直ちに視察に赴き
親しく住民を励まし、奔走指揮した。
29日に雨はまた激しく降り、7月1日には風ますます強くなり
そのため防御することもならず、決壊箇所は40歩余りにおよんだ。
その後、氾濫は河内、若江、渋川、住吉の諸群にまで波及し
家屋の浸水は大阪にまで波及した。
夜になってから風雨は益々強くなり
水かさは増して、人、家畜の悲鳴が加わり
これ以上の惨状は無かった。
役人は船を出して漂流、衰弱している被災者を救助し
仮設住居を設定して食料を給付した。
その状況を知られた天皇から金5000円を賜った。
神商(教養・品位を備えた一流の商人)は
急遽金銭と穀物の寄付を行い、人々を救済した。
府知事は大々的に人夫を募り
堤防の修理を行うが完成までに3ヶ月がかかった。
木屋村の北に赤井堤という堤防があるが壊滅し
200歩以上が流出、家屋35を消失し
良田は土砂流入により壊滅した。』

写真 http://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/f/2/f2a83220-s.jpg

 赤井堤紀念碑は、寝屋川市木屋の大阪府水生生物センターの北西の淀川堤防に建っている緑色片岩の碑(明治19年7月建立)です。碑文は西尾徳太郎氏の撰文で明治18年6月の水害と赤井堤の修築について記されています。
 とくに赤井堤は、「わたしたちの大阪北河内版(日本文教出版)」では水をめぐるあらそいで登場する堤防です。とくに寝屋川市の小学生には有名な堤防です。
 これはちょうど淀川堤防と直交する方向に伸びています。ほぼ東西方向の堤防で、寝屋川市木屋の鞆呂岐神社の奥の宮があるところが赤井堤です。堤防の高さは2m弱もあって、室町時代後期以降、寝屋川市木屋の北側、枚方市出口や伊加賀あたりの淀川堤防がしばしば破堤したので、枚方市からの水による浸水被害を防ぐために寝屋川市木屋より南の地域が整備していったようです。北河内中河内の水防要所だったのでしょう。
 明治18年6月の水害時には、赤井堤も破堤して北河内から中河内までが浸水してしまって、元庄内藩士で当時郡長の俣野景孝と数名が若干の借金と寝屋川市より南の地域から資金を調達して、赤井堤を修築したそうです。
 碑文の最後に「必ず鬼神に祷り」と禹王の伝説を引用しています。寝屋川市木屋の鞆呂岐神社に、何かなぞが隠されているのでしょうか。

2016年3月26日土曜日

海外で活躍した日本人 台湾から東日本大震災への支援 264億円

海外で活躍した日本人 移  民  




林子平 ~ 北方防備の先覚者 はやししへい



 「日本を救うためなら罪人になろうとも」     江戸中期 仙台藩士



 ブラジル日系  移 民一世紀の苦闘

   ウルグアイへの移民 ウルグアイで育った人が 
   日本で生活していたが、再度の移住地にもどる テレビ放映

   ペルーの大統領  フジモリ大統領



日系人が大統領になった国 地図



               ハワイもありますが 小さい島々です。 日本人の移民え

            移民の歴史





 


   児玉源太郎後藤新平、新渡戸稲造
   3. 悪疫予防のために、上下水道を完備
    80歳以上の老人男女を食事に招待する(饗老会)
   4.西郷菊次郎の治水工事
    5.教育に殉じた六氏先生  芝山巌精
    6.台湾の神様になった森川巡査 森川清治郎巡査
    7.蓬莱米を開発した末永仁と磯永吉
    8.台湾の土となった明石元二郎総督
    9.東洋一の大水利事業を完成した八田與一
   10.台湾 加油(がんばれ)
 


 以上 2024/01/05 追加




第3章  台湾統治

下関条約締結でわが国が台湾の割譲を受けた際、清国側全権大使の李鴻章から、台湾には絶対に根絶できない四害がある、との警告を受けた。四害とは、原住民の反乱、風土病、アヘン、盗賊である。

たしかに、台湾統治の当初は反乱がしばしば起こり、これを武力で鎮圧することもあったが、治安はしだいに安定していった。その後は原住民との宥和政策に取り組み、民生の向上に努めた。病院を建設し下水道を敷設するなど衛生環境を向上させ、マラリアなどの風土病対策に取り組んだほか、アヘンも徐々に根絶するなど、四害を次第に克服していったのである。

さらに、鉄道や道路網、港湾などのインフラを整備し、ダムを建設して灌漑事業をおこない、森林を開発して林業を発展させ、学校を建てて教育を施すなどして、台湾の人々の生活は次第に向上していった。

その結果、台湾の民生は大いに向上し、一九〇五年には約三一〇万程度だった台湾の人口が、一九四三年には約六六〇万人にまで倍増している。

台湾開発事業の一つに、扶桑社(一七一頁)が紹介している八田與一によるダム建設がある。


台湾南部に嘉南平野という広大な平野がある。しかし、この亜熱帯地域では、雨季には集中豪雨に見舞われ、乾季には水不足に悩まされており、とても耕作などできる状態ではなかった。

この惨状を知った八田が、ダム建設をはじめとする『嘉南平野開発計画書』を作成して台湾総督府に提出した。これには多額の費用を要したが、八田の情熱に押され、これが実施されることとなった。
原生林の広がる未開地でのダム工事は困難を極めた。そうしたある日、トンネル工事で爆発事故が発生し、五十数名が死亡したほか、多くの重傷者を出した。八田は、台湾人の犠牲者の家を一軒一軒回り、心から弔いと慰めの言葉を伝えたという。

この事故で八田は自信を喪失し、事業の断念も覚悟したが、「事故はあんたのせいじゃない。おれたちのために、台湾のために、命がけで働いているのだ」との台湾人の言葉に励まされて、工事を再開した。そしてついに一九三〇年、ダムは完成した。これとあわせて嘉南平野には一万六千キロにも及ぶ水路がくまなく張り巡らされ、嘉南平野は緑の大地に生まれ変わったのである。

今でも、彼の命日である五月八日には、ダムのそばにある彼の墓前で、地元の人々によって感謝祭が行われている。また二〇〇四(平成十六)年末には、日本を訪れた李登輝前台湾総統が、金沢にある八田の生家を訪れている。

ほかにも、一九三一(昭和六年)の第十七回全国中等学校野球選手権大会(いまの夏の高校野球選手権大会)では、台湾の嘉義農林学校が、奮闘の末、準優勝にまで上りつめたというほほえましいエピソードもある。

そうした明るい一面があったからこそ、李登輝をはじめ、きわめて親日的な人物が台湾で数多く現れたのである。

にもかかわらず、扶桑社を除く各教科書の記述は、「日本に統治されることに反対する台湾の人々の運動を弾圧しました。しかし、日本からの独立を求める運動は、その後もつづきました。」(教育出版 一二七頁)、「日本の領土とされた台湾では、独立運動がおこったが、日本は軍隊を派遣してこれを弾圧し、台湾を植民地として支配した。」(日本書籍新社 一五九頁)のように、暗黒面ばかりをやたらと強調している。あまりにもバランス感覚に欠けた偏向的な記述であり、日台関係を正しく理解するという観点からも不適切であって、台湾との友好をもわざわざ悪化させてしまうものとさえいうべきものである。
台湾人の蔡焜燦氏はこう指摘する。

戦後日本では、かつての植民地統治を無条件に批判する言論が幅を利かせていると聞く。が、日本による台湾統治によって、いかに多くの台湾人が恩恵を受けたかという側面を考慮しないことはあまりにもお粗末であり、聞くに耐えない。それは単なる特定イデオロギーに染まった〝こじつけ〟でしかなく、少なくとも日本の統治を受けた台湾人には理解し難いことであることも、ここに付記しておく必要があろう。
(蔡焜燦『台湾人と日本精神』六十七頁)

扶桑社を除く各教科書も、暗黒一色の「お粗末」な記述を改め、われわれの先人が台湾の発展のために尽力したという歴史的事実を明確に記述すべきである。特に、日本人と台湾人が協力した八田ダム建設などは、扶桑社以外の教科書でもコラムで子供たちに紹介したいエピソードである。
針原 崇志 より転写 
 映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』

「湾生」戦前の台湾で生まれ育った約20万人の日本人を指す言葉です。

びっくりぽんや!「あさが来た」 北浜界隈探索会 実施編


別なグループは案内役 講談師 


講談師 旭堂 南陽さん
「北摂の武将を訪ねる」 高山右近
大阪日日新聞 3/26

びっくりぽんや!「あさが来た」北浜界隈探索会 終了しました。


錦橋の昔の情景を見るシニア自然大学の会員

大同生命 資料室の見学
皆さん熱心です。  梅花高校は・・・・

旧ダイビル の4階に設置されていたもの。


堂島米市場跡

                      新 町 橋

                 
玉江橋            安治川橋

 

これは 心斎橋 今でも人通りが多い

現在、鶴見緑地に「緑地西橋」として保存

高麗橋

忘れられた橋



大同生命2階資料室



適塾

伍代友厚像  
大阪市内に銅像は4基
今回 大阪市大に銅像が建てられた。 5基になる。

下のポスター 伍代友厚が作る 明治の遺産

明治日本の産業革命遺産   小菅修船場(長崎製鉄所) 非公開

長崎空港にて 


前回見つけることが出来なかった 大阪会議 「花外楼」

料亭「加賀伊(かがい)」店名を「花外楼」と改名

最初の大阪会議は 「三橋楼」

後は 高麗橋

8軒家船着き場の跡

熊 野 街 道

街道 色分け  亀岡街道,横関街道,本庄街道,能勢街道,中国道,





街道 色分け 
 紫色 左から中央へ降りているのが 中国道
 赤色 能勢街道 明治以降 橋が架かっていた
 黄色 本庄街道
 水色 横関街道
 白色 亀岡街道

木下直三郎 資料

[PDF]Page 1 Page 2 Page 3 Page 4 Page 5 恩盟忘るる能わぬ港の ...


   二十四年十月大阪府の有志五人 (大橋房太郎、 植場平、 前田欣汰郎、 木下直一二郎、 藤富衛) は京都府有志と共. に上京し、 内務大臣品川 .... 藤田伍三郎は独力工事の引受を申出たが、 同様許可されず、 築港のことは再度挫折した。



格上げ 下三番村の道標 中国道と能勢街道の分岐に建っていた道標!

結果を先に  この道標は 中国道と能勢街道の分岐に建っていた道標です。
場所で言うと 中津の下三番村の分岐の北側に立っていたもの。
下の地図 赤印   中国道と一般的云う能勢街道の分岐


一枚のスケッチ画から  福西茂さん

現在はない 緑地の「サボテン公園」のスケッチ
左端の道標
馴染みの地名が出てきます。 何処に立っていたものでしょうか!
現在は奄美大島の 「奄美アイランド」に立っています!
石に刻まれている文字を拾ってみます。
           左面       正面       右面
 
大阪市に問い合わせをしましたが! これに関する資料は見当たらないとのこと。
裏面には 「天保十三年」(1842) 明治元年は1868 もうすぐ明治
ということで、 正面が道路に向いている。
中国道の三叉路の北側に立っていた。

赤色 能勢街道 明治以降 橋が架かっていた
 黄色 本庄街道    水色 横関街道   白色 亀岡街道

正面 これから説明した方が分かりやすい、高麗橋からの道の案内 「すぐ の道」は現在の能勢街道 江戸時代は、野道であった。 明治5年の大阪府道路修理通達でも、この道は野道で、池田に行くには、「池田街道は本庄の渡を経て池田より能勢丹波に至る」となっており、 下3番が登場するのは 明治24年大阪府補助道路一覧に 6番目に能勢街道として西成郡中津村大字下三番国道第二十六号路線より能勢郡歌垣村大字吉野管轄界迄」 これが、下三番村が出てくる所以です。 これより、私たちは「能勢街道」と呼ぶようになった。 天保13年には、能勢街道はこれでなく、ただの「野道」だったのです。
 能勢街道であれば、「すぐ いけだ」にはなっていない理由が分かっていただけたと思います。
左右は それぞれ、尼崎、なにわばし(高麗橋)への道としている。